《ぬ》き身《み》の一刀がかざされているのだ。
「うむ! こいつだツ!」
「それ! 一時にかかってたたっ斬ってしまえ!」
源十郎をはじめ大声に叫びかわして、雨滴に光る殺剣《さつけん》の陣がぐるりと泰軒をとりまく。
が、豪快《ごうかい》蒲生泰軒、深くみずからの剣技にたのむところあるもののごとく、地を蹴って寄り立った石燈籠を小楯《こたて》に、自源流中青眼――静中物化を観るといった自若《じじゃく》たる態《てい》。
薩州島津家の刀家|瀬戸口備前守《せとぐちびぜんのかみ》精妙の剣を体得したのち伊王《いおう》の滝において自源坊《じげんぼう》に逢い、その流旨《りゅうし》の悟りを開いたと伝えられているのがこの自源《じげん》流だ。
泰軒先生、自源流にかけてはひそかに海内無二《かいだいむに》をもって自任していた。
いまその気魄《きはく》、その剣位《けんい》に押されて、遠巻きの一同、すこしくひるむを見て、
「ごめん! 拙者がお相手つかまつるッ!」
と躍り出た源十郎、去水《きょすい》流居合ぬきの飛閃、サッ! と雨を裂いて走ったと見るや! 時を移さず跳びはずして、逆に、円陣の一部をつきくずした泰軒の尖刀が即座に色づいて、泰軒先生、今は余儀《よぎ》なく真近《まぢか》のひとりを血祭りにあげた。
雑草の根を掻きむしって悶絶するうめき声。
とともに、四、五の白刃、きそい立って泰軒に迫ったが、たちまち雨の暗中にひときわ黒い飛沫《しぶき》がとんだかと思うと、はや一人ふたり、あるいは土に膝をついて刀にすがり、あるいは肩をおさえて起ちも得ない。
迅来《じんらい》する泰軒。
その疾駆し去ったあとには、負傷《てお》いの者、断末魔《だんまつま》の声が入りみだれて残る。こうして庭じゅうをせましと荒れくるう泰軒が、突然、捜し求めていた源十郎とガッ! と一合、刃をあわせる刹那、絶えず気になっていた離庵の中から、たしかに斬った斬られたに相違ない血なまぐさい叫びが一声、筒《つつ》抜けに聞こえてきた。
と、まもなく生き血に彩られて、光を失った刀をさげて、黒い影がひとつ。ころがるように庵を出てくるのが見える。
剣を持っているその手! それは右腕か左腕か?
右ならば栄三郎、左腕なら左膳だが……。
と、思わず泰軒が眼をとられた瞬間!
「えいッ!」
と炸破《さくは》した気合いといっしょに、源十郎の長剣、突風をまきおこして泰軒に墜下《ついか》した。
胸に邪計をいだく櫛まきお藤。
じぶんの恋する左膳が思いをかけている弥生という娘。これがまた左膳の仇敵《かたき》諏訪栄三郎を死ぬほどこがれている――つまり弥生と、先夜源十郎方から逃がしてやったお艶とは激しい恋がたきだと知るや、お藤はここに弥生を突ついて、その心をひたむきに栄三郎へ向けて左膳に一泡ふかせてやろうとたくらんだのだ。
それには、文つぶての思いつき。
恋と嫉妬《しっと》は同じこころのうら表だ。離るべくもない。
しかも、以前から人知れず強い憎悪《にくしみ》の矢を放って、お艶という女を呪いつづけてきた弥生のことである。このお藤の傀儡《かいらい》に使われるとは、もとより気づこうはずがない。一も二もなくお藤の投げた綱に手繰《たぐ》りよせられて、送り狼と相々傘《あいあいがさ》、夢みるような心もちのうちにこの瓦町の家へ届けられてきたのだが……。
さてこうしてお艶、栄三郎の暮しを目《ま》のあたりに見て、現にお艶と向かいあいながら、さて、その憎い女の口から主人の栄三郎は――などといわれてみると、根が武家そだちの一本気な弥生だけに、世の中を知らぬ強さがすぐこの場合弱さに変わって、はかなさ情けなさが胸へつきあげてきた弥生はただもう泣くよりほかはなかった。
弥生は泣いた。さめざめと泣いた。
が、うつ伏せに折れるでもなければ、手や袂《たもと》で泣き顔をおおうでもない。
両手を膝に重ねて、粛然《しゅくぜん》と端坐してお艶に対したまま、弥生は顔中を涙に濡らして嗚咽《おえつ》しているのだ。
その泣き声が、傘をすぼめて戸外の露地に立ち聞くお藤の耳にはいると、櫛まきお藤、細い眉を八の字によせていまいましそうに舌打ちをした。
「チェッ! なんだろう、まあだらしのない! 自分の男をとった女と向きあってメソメソ泣くやつもないもんだ。お嬢さまなんてみんなああ気が弱いのかしら――じれったいねえ! 嫌になっちゃうよほんとに」
こうつぶやいてなおも戸口に耳をつけると、雨の音に増して、弥生の泣き声がだんだん高くなる。
まことに弥生は、やぶれ行燈《あんどん》に顔をそむけようともせず、流れる涙をそのままお艶へ見せて、オホッ! オホッ! と咳入るように泣いているのだが、それをお艶は、はじめはふしぎなものに思って、あっけにとられて眺めていた。
美
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