半身を伝わって、いたずらに往来の土にしみる。それでも、物陰からかけるエイッ! ヤッ! という泰軒の気合いにわれ知らず励《はげ》まされて、あれから五、六合はげしく渡りあっていたが、そのうちに! 誰ともなく加勢の声ありと聞きとった左膳は、長居《ながい》はめんどうと思ったものか、阿修羅《あしゅら》のごとき剣幕《けんまく》で近く後日の再会を約すとそのまま傾く月かげに追われて江戸の方へと走り去ったのだった。
お艶栄三郎、明けはなれてゆくうす紅《くれない》の空の下でひさしぶりに手をとりあった。
お艶が、手拭を食いさいて傷の手当をしながらきくと、なるほど泰軒のいうとおり、栄三郎は今まで千住竹の塚の乳兄弟《ちきょうだい》孫七方にころがりこんでいたものと知れて、お藤にふきこまれたお艶の疑念《ぎねん》はあとかたもなくはれわたったが、なんのためにあんな嘘をついたのかとそれを思い惑《まど》うよりも、お艶はただ、すぐと栄三郎と家を持つ楽しい相談に頬を赤らめるばかりだった。
「もうわしがおっては邪魔であろう。これ以上ここらにうろうろすれば憎まれるだけだ。犬に食われんうちに退散《たいさん》退散」
こう粋《すい》をきかして泰軒が立ち去ったのち、二人は、あれでどれほど長く玉姫神社の階段に腰をかけて語り合っていたものか――気がついた時は、陽はすでに斜《なな》めに昇って、朝露に色を増した青い物の荷車が、清々《すがすが》しい香とともに江戸の市場へと後からあとから千住《せんじゅ》街道につづいていた。
それからまもなく。
泰軒のいる首尾の松へも近いというところから、三人で探して借りたこの家であった。
たらぬがちの生活にも、朝な朝なのはたきの音、お艶の女房《にょうぼう》ぶりはういういしく、泰軒は毎日のように訪ねて来ては、その帰ったあとには必ず小粒《こつぶ》がすこし上がりぐちに落ちている。大岡様から与えられた金子をそれとなく用立てているものであろう。栄三郎は押しいただいて使っていたが、そのくせいつも顔が会っても、かれも泰軒もそれについては何一ついわない。殿方《とのがた》の交際《まじわり》はどうしてああさっぱりと行きとどいているのだろうと、お艶は涙のこぼれるほどうれしかった。
お艶のはなしによって。
丹下左膳が、母おさよの奉公先なる本所法恩寺まえの旗本鈴川源十郎方の離庵《はなれ》にひそんでいることがわかった。
で……。
泰軒と栄三郎、この二、三日こっそりと談合《だんごう》をすすめていたが、お艶に知らせればむだな心配をかけるばかりだと、先刻雨の中をぶらりと銭湯に出ていった栄三郎は、じつはいまごろは泰軒としめし合わせて本所の鈴川の屋敷へ斬りこんでいる時分なのだ!
そうとは知らないお艶、ぬれ手拭をさげた栄三郎をこころ待ちに、貧しいなかにも黙って出して喜ばせようと、しきりに口のかけた銚子《ちょうし》の燗《かん》ぐあいを気にしていると――。
突如《とつじょ》、はでな色彩《いろどり》が格子さきにひらめいたかと思うと、山の手のお姫様ふうの若いひとが、吹きこむ雨とともに髪を振り乱して三尺の土間《どま》に立った。
どうん! と一つ、戸外《そと》から雨戸を蹴るのが手はじめ。
栄三郎と泰軒が、同時に左右に別れてその戸の両側に身をかくす。
とも知らない庵内の男、夢中でごそごそ起き出たらしく、やがてめんどうくさそうに戸をあけて、
「ちえッ! 誰だ、今戸にぶつかったのは? 用があるなら声をかけろ」
と、みなまでいわせず、刹那《せつな》、鞘をあとに躍《おど》った武蔵太郎が、銀光一過、うわあッ! と魂切《たまぎ》る断末魔《だんまつま》の悲鳴を名残りに、胴下からはすかいに撥《は》ねあげられたくだんの男、がっくりと低頭《おじぎ》のようなしぐさとともに、もう戸の隙から転び落ちて、雨に濡れる庭土を掻いてのたうちまわる。
生きている血がカッ! と火の子のように熱《あつ》く栄三郎の足に飛び散る。
だが! たやすく刃にかかったところを見ても、斬られたのは左膳ではなかった。現《げん》に男は二本の腕で、飛び石を噛み抱いている。
とすると、
庵のなかには、めざす丹下左膳がまだ沈潜《ちんせん》しているに相違ないがカタリとも物音一つしないのは、寝てか覚《さ》めてか……泰軒と栄三郎期せずして呼吸《いき》をのんだ。
夜の氷雨《ひさめ》がシトシトと闇黒を溶かして注いでいる。樹々の葉が白く光って、降り溜まった水の重みに耐えかねて、つと傾くと、ポツリと下の草を打つ滴《しずく》の音が聞こえるようだ。松の針のさきに一つ一つ水玉がついているのが、戸の洩れ灯をうけて夜眼《よめ》にもいちじるしい。
しみじみと骨を刺す三|更《こう》の悲雨《ひう》。
本所化物屋敷の草庵に斬りこみをかけた二人は、一枚あいた板
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