びといっていいのは、さしも一時は危ないとまでに思われた胸のやまいが、このごろではどうやら持ちなおして、心の持ちようと養生一つでは、肺の悩みも決して不治《ふじ》ではない。不治どころかなおし方さえ知ってみれば、とんとん拍子に快《よ》くなるばかり……という強い信念を、当《とう》の弥生をはじめ多門も持ち得るようになったことだ。
ところが、こうして病気が快方に向かうにつれて、栄三郎に対する弥生の思いは募りにつのって、それも当初の生一本の娘ごころの恋情とは違って、あいだにお艶というものがあるだけに、いっそう悪強い、人の世の裏をいく執拗《しつよう》な妬婦《とふ》の胸中に変わろうとしていた。
恋の競《せ》り合《あ》い――あまりにも露骨《むきだし》な、われとわがこころの愛憎に驚きながらも、弥生は日夜そのお艶とやらを魔神にかけて呪《のろ》わずにはいられなかったのだ……。
よくなりつつあるとはいえ、まだ床は出られない。
今宵《こよい》も弥生が、おのが友禅《ゆうぜん》を着せた行燈の灯影に、寝つかれぬままに枕に頬をすって、思うともなく眼にうかぶ栄三郎の姿を追い、同時に、翻《ひるがえ》ってまだ見ぬお艶とやらへ恨みの繰《く》り言《ごと》をひとり口の中につぶやいていると……。
音もなく流れこむしめっぽい夜風。
とたんに、またひとしきり咳《せ》いた弥生は、
「おや! 窓をしめ忘れて……」
と独語《ひとりご》ちながら、わざわざ人を呼ぶほどのこともないと、静かに夜着をはねて起きあがったが。
そのときだった。
今にも降り出しそうな戸外《そと》の闇黒から、何やら白い礫《つぶて》のような物が、窓の桟《さん》のあいだを飛んできて畳を打った。
ふしぎそうに首を傾けた弥生、こわごわ拾いあげてみると、紙片で小石を包んで捻《ひね》ってある――文《ふみ》つぶて。
なんだろう? と思うより早く、弥生がいそいで開くと、小石が一つ足もとにころげ落ちて、手に残ったのは巻紙のきれはし。
誰の字とも弥生はもとより知る由もないが、金釘流《かなくぎりゅう》の文字が野路《のじ》の時雨《しぐれ》のように斜めに倒れて走っている。
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失礼ながら一筆申しあげそろ。
お艶栄三郎どのがたのしく世帯《しょたい》を持って夫婦ぐらしのさまを見るにつけ、おん前さまがいじらしくてならず、いらぬこととは存じつつお知らせ申しそろ。その場へおいでのお心あらば、わたしがこれよりおつれ申すべく早々におしたくなされたくそろ――ごぞんじより。
[#ここで字下げ終わり]
はっとよろめいた弥生、窓につかまってさしのぞくと、御存じよりとはあるが、見たこともない女がひとり、いつのまにどうしてはいりこんだものか、小雨に煙る庭の立ち木の下に立って、白い顔に傘《かさ》をすぼめておいでおいでをしている。
憑《つ》かれたように立ちなおった弥生が、見るまに血相をかえて手早く帯を締《し》め出したとき、やにわに本降りに変わって、銀に光る太い雨脚《あまあし》が檐《のき》をたたいた。
世帯道具《しょたいどうぐ》――といったところで茶碗皿小鉢に箸《はし》が二組と、それにささやかな炊事《すいじ》の品々だが、その茶碗と箸も正直なところできることなら同じ一つですませたいぐらい。
何はなくとも、栄三郎とお艶にとっては、高殿玉楼《こうでんぎょくろう》にまさる裏店《うらだな》の住いだった。
家じゅうがらんとして……というと相応に広そうだが、あさくさ御門に近い瓦町《かわらまち》の露地の奥、そのまた奥の奥というややこしい九尺二間の棟割《むねわり》である。せまいなどというのを通りこして、まっすぐに寝れば足が戸口に食《は》み出るほどだったが――。
その、せまく汚ないのがおかしいといってお艶が笑えば栄三郎も微笑《ほほえ》む。笊《ざる》、味噌《みそ》こしの新しいのさえ、こころ嬉しくも恥ずかしい若いふたりの恋の巣であった。
お艶と栄三郎、思いが叶ってここに家をかまえたまではいいが、自分が逃げたためにもしやお母さんに疑いがかかって、本所の屋敷であの源十郎の殿様にいじめられていはせぬかと思うと、こうしていてもお艶は気が気でなかったとともに、それにつけて、思い出してもふしぎなのは、じぶんを逃がしてくれたお藤さんという女の振舞《ふるまい》とその言葉である。
栄三郎様と弥生さまとが……と聞いてむちゅうで駈け出したお艶が、泰軒とつれだって千住をさして急いだ途中。
あの小塚原のあけ方、左膳と栄三郎が刃を合わせた。
四分六といつか泰軒が評《ひょう》したことばのとおりに剣胆《けんたん》二つながらに備えてはいても、何しろ左膳ほど刀下をくぐっていない栄三郎、ともすれば受け太刀になって、しかも手の甲をさいた傷口から鮮血はとどまるべくもなく、下
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