いお艶は、じゃまになる裾まえをおさえながら、ともすれば遅れがちの足を早めて、われとわが身をいたわるような溜息《ためいき》といっしょに、泰軒へ追いついた。
「ねえ先生、どこまでゆくのでございましょうか。ずいぶん遠うございますねえ。ここはもう江戸ではございますまい?」
 泰軒の笑い顔が振り向いた。
「そうさ。江戸ではない。が、日本のうちだ。安心してついて来なさい。だいたい発足した時から、遠いがええかとわしは念を押したはずだ。夜みちをかけてかわいい男に会いにいこうというのに、そう気の弱いことではしようがないな、ははははは」
「でも――」とお艶はあえいだ。
「でも……なんじゃな?」
「でもね先生、後生ですからうちあけておっしゃってくださいましよ。あの、栄三郎様は、ほんとにその千住の竹の塚とやらにおいでになるのでございますか」
「行ってみりゃあわかる。一番の早道だ」
「そして――そして、おひとりで……?」
「さ、それもこれから寝こみを襲えばすぐわかろう」
 じらすように泰軒が言うと、お艶は情けなさそうにうつむいてかぶっている手拭《てぬぐい》のはしを前歯に噛んだ。
 罪だ……とは思うが、どうせ後から笑いばなしになることと、泰軒は微笑の顔を見せないように先に立つ。
 あとに続くお艶の心中は、嫉妬と不安とはかない喜びにかきむしられて、もつれもつれた麻糸の玉だった。
 櫛まきお藤に手をとられて、本所法恩寺橋まえの鈴川の屋敷をのがれ出てから。
 小一丁も来たかと思うころ、お艶はお藤を見失ってしまった。それはお藤としては、お艶の口から恋がたき弥生のいどころを知って、そのうえ源十郎への意趣晴らしにお艶をつれ出した以上は、もはやお艶は足手まといにすぎないと、そこでさっそく夜の町にまいてしまったのだが、弥生と栄三郎が家を持っている――と聞いただけで、なに町のどこに? ともまだお藤に質《ただ》さなかったお艶は、夜更けの街上にひとりですっかり途方にくれた。
 あの若殿さまにかぎって、まさか!
 と一度は強く打ち消してもみるが、夏の沖に立つ綿雲《わたぐも》の峰のように疑念が、あとからあとからと胸にひろがってはてはどうしても事実としか思えなくなったお艶、栄三郎と弥生を据え置いて面罵《めんば》し、二人を呪《のろ》い殺さなくてはならぬ……と狂乱に浪打つ激しいこころを抱いて、どこをどう歩きまわったものか、やがてわれに返って気がついてみると、吸われるように立ち寄っていたが、あの、思い出すさえ嬉し恥ずかしい首尾《しゅび》の松……。
 おお、そうだ! 泰軒先生におすがりして! と、黒い河水にのまれた三つの小石、暗《やみ》にも白い手が袖口にひらめいて。
 ポトン! ポトンポトン!
 苫《とま》をはぐって一艘の舟から現われた泰軒は、お艶のその後のとらわれの次第、場所、そしてそこに乾雲丸をもつ隻眼隻手の客丹下左膳がひそんでいることなどを話したのち、せきこんで栄三郎様は? とたずねると、泰軒は平然と、かれは田舎《いなか》にいるから二人この足で押しかけよう――こう言っていきなり歩き出したのだった。
 貧乏徳利をさげた乞食と服装《なり》ふりかまわぬ若い女……それは奇妙な道行きであった。
 で。
 さっきから無言に落ちて、あらぬ空想《おもい》に身をまかせていたお艶が、怒りと悲しみに思わず眼を上げて薄明のあたりを見まわすと、
「あれ! あれが仕置《しお》き場《ば》だ」という泰軒の声。
「まあ! こわい……」
「はははは、だから、急ぐとしよう」
 が、泰軒はぴたッと立ちどまって、うしろのお艶をかばうようにかまえた。
 田圃《たんぼ》にはさまれた杉|並木《なみき》。
 ほのかに白い道のむこうに、杉の幹にはりついて黒い影がある。
 と、お艶の忘れられない若々しい詩吟の声が、ゆく手の半暗をさいて流れて来た。
「日暮《にちぼ》、帰りて剣血《けんけつ》を看《み》る」
 坤竜丸、夜泣きの脇差の秘告《ひこく》であろうか。
 平巻きの鞘が先へさきへと腰を押すような気がして、ただじっとしていられなかった栄三郎が、明けから江戸の町をあるくつもりで千住街道を影とふたりづれで小塚原の刑場へまで来ると――。
 眼のすみを横切って、ちらと動いたものがある。それが、右に立ち並ぶ木の根を離れたかと思うと、タッタッ! と二足ばかり、うしろに迫る人の気配を感じて、栄三郎は振り返った。
 その時。
 長星。闇黒に飛来して、刃のにおいが鼻をかすめる。来たなッ! と知った栄三郎、とびさがれば斬尖《きっさき》にかかる――ままよ! とかえって踏みこんでいったのが、きっぱりと敵の体に当たって、栄三郎は何者とも知れない覆面の剣手をつかんでいた。
 それが、左腕の片手!
 刀は乾雲丸……きょうが日まで捜しあぐんでいた丹下左膳だ。
「これ! 乾
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