様がお呼びだよ。お燗《かん》がきれたってさっきから狂気みたいにがなっているんだ。行ってみておやりな」
「ええ、ですから、とても、一人じゃ手がまわりませんから、このお艶――さんに助けてもらおうと思いましてね。それに殿様の御意《ぎょい》もあることだし……さあお艶さん、おとなしく離室《はなれ》のほうへおいで。ね、お咎《とが》めのないうちに」これ幸いと再びおさよがお艶の手を取りせきたてるのを、お藤は、所作《しょさ》そのままの手でぴたりとおさえておいて、凄味《すごみ》に冷え入る剣幕《けんまく》をおさよへあびせた。
「いいじゃないの、ここは! お艶さんには、いろいろ殿様に頼まれた話もあるんだから、お前さんはあっちへお行きってば!」
「でも、お艶をつれてくるようにと――」
「しつこい婆さんだねえ。あたしが連れていくからいいじゃないか。それより、癇癪《かんしゃく》持ちがそろっているんだ。また徳利でも投げつけられたって知らないよ。早くさ! ちょッ! さっさと消えちまいやがれッ!」
おどかされたおさよが、逃げるように廊下を飛んでゆくと、その跫音《あしおと》の遠ざかるのを待っていたお藤は急に眼を笑わせて部屋の隅のお艶を見やった。
もう五刻《いつつ》をまわったろう。
魔《ま》の淵《ふち》のようなしずけさの底に、闇黒《やみ》とともに這いよる夜寒の気を、お艶は薄着の肩にふせぐ術《すべ》もなく、じっと動かないお藤の凝視《ぎょうし》に射すくめられた。
酒を呼ぶ離庵《はなれ》の声が手にとるよう……堀沿《ほりぞ》いの代地《だいち》を流す按摩の笛が、風に乗って聞こえてくる。
膝を進めたお藤は、横に手を突いて行燈のかげをのぞいた。
「お艶さん、お前、かわいそうにすこし痩せたねえ。おうお! むりもないとも。世間の苦労をひとりで集めたような――あたしゃいつも与の公なんかに言っていますのさ。ほんとに納戸の娘さんはお気の毒だって」
積もる日の辛苦《しんく》に、たださえ気の弱いお艶、筋ならぬ人の慰め言と空耳《そらみみ》にきいても、つい身につまされて熱い涙の一滴に……ややもすれば頬を濡らすのだった。
そこをお藤がすり寄って、
「ねえ、お前さんあたしを恨んでおいでだろうねえ? いいえさ、そりゃ怨まれてもしようがないけれど、実あね、あたしも当家の殿様に一杯食わされた組でね、言わばまあお前さんとは同じ土舟の乗合いさ。これも何かの御縁だろうよ。こう考えて、お前さんをほっといちゃあ今日様《こんにちさま》にすまないのさ、これから力になったりなられたり、なんてわけでね。それでお近づきのしるしに、あたしゃ、ちょいと、ほほほほ、仁義にまかり出たんだよ」
お艶がかすかに頭をさげると、お藤は、
「これを御覧《ごらん》!」と袂《たもと》からわらじの先を示して、「ね、このとおり生れ故郷の江戸でさえあたしゃ旅にいるんだ。江戸お構え兇状持《きょうじょうも》ち。いつお役人の眼にとまっても、お墓まいりにきのう来ましたって、ほほほほ。こいつをはいて見せるのさ。まあ、あたしはそれでいいけれどお前さんにはかわいい男があったねえ」
お艶は、海老《えび》のようにあかくなって二つに折れる。
「男ごころとこのごろのお天気、あてにならないものの両大関ってね」
「え!」と、ぼんやりあげたお艶の顔へお藤の眼は鋭かった。
「弥生さまとかって娘さん、あれは今どこにいるかお前知ってるだろう?」
「ええ。なんでも三番町のお旗本土屋多門さま方に引き取られているとかと聞きましたが――」
これだけ言わせれば用はないようなものだが、
「さ。それがとんだ間違いだから大笑い」と真顔を作ったお藤、「お前さん泣いてる時じゃないよ。男なんて何をしてるか知れやしない。他人事《ひとごと》だけれど、あんまりお前って者が踏みつけにされてるからあたしゃ性分《しょうぶん》で腹が立って……さ、しっかりおしよ、いいかえ、弥生さんはお前のいい人と家を持ってるんだとさ」
ええッ! まあ! と思わずはじけ反《そ》るお艶に、お藤はそばから手を添えて、
「じぶんで乗りこんで、いいたいことを存分《ぞんぶん》に言ってやるがいいのさ。今からあたしが案内してあげよう!」
一石二鳥。源十郎への復讐にお艶を逃がし、左膳への意趣《いしゅ》返しには弥生のいどころを知ったお藤、ひそかに何事か胸中にたたんで、わななくお艶をいそがせて庭に立ったが、まもなく化物屋敷の裏木戸から、取り乱した服装の女性|嫉妬《しっと》の化身《けしん》が二つ、あたりを見まわしながら無明の夜にのまれ去ると、あとには、立ち樹の枝に風がざわめき渡って、はなれに唄声《うたごえ》がわいた。
杯盤狼藉《はいばんろうぜき》酒池肉林《しゅちにくりん》――というほどの馳走でもないが、沢庵《たくあん》の輪切りにくさやを肴
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