れ知らず面を伏せて、心中に足もとの土へ話しかけた。こいつあとんだことをしたぞ! まさかこんなに相《そう》まで変えようとは思わなかったが、ちえッ! 黙っていりゃあよかった……。
と、頭のうえで、夢でもみているような、しらけきったお藤の声がした。
「きれいな娘だろうねえ、その弥生さんとかってのは」
「へ?」と顔を上げた与吉は、とたんに、三斗の冷水を襟元からつぎこまれた感がして、「へえ、なんでもあけぼの小町といわれたくらいですから、それあもう――」
と語尾を濁して黙りこんだ。
仮面のようなお藤の顔が、こわばった笑いにゆがんだのを見て、与吉は慄然《ぞっ》としたのだった。
「それはそうだろうさ。あたしみたいなお婆あさんなんか足もとへも寄れやあしまい。はははは、知ってるよ! でも与の公、お前いいことをしらせておくれだったね。ほんの少しだけれど、さ、お礼だ、取っといておくれ」
黒襟のあいだを白い手が動いたかと思うと、ちゃりいん! と一つ、澄んだ音とともに、小判が与吉の眼前におどった。
同時に。
ぽかんとしている与吉をその場に残して、お藤は、夕ぐれの庭に息づく雑草を踏んで歩き出した。嫉妬《しっと》にわれを忘れたお藤、よろめく足を千鳥に踏みしめて、さながら幽明《ゆうめい》のさかいを往《ゆ》くように。
声のない笑いがお藤の口を洩れる――。
今さら男を慕うの恋するのという自分ではない。それが、丹下左膳のもっている何ものかにひきつけられて、あの隻眼隻手のどこがいいのかと傍人《ひと》もわらえば自らもふしぎに耐えないくらい思いをよせているのに、針の先ほども通じないばかりか、先夜来すこしのことを根に持ってあの責め折檻《せっかん》が続いたのも、あの方に弥生という相手があってこのあたしとあたしの真実をじゃまにすればこそであったのか。
それにしても――
源十郎の殿様は、まあなんというお人だろう!
必ず丹下さまとの仲をとりもってやるから、そのかわりに……という堅い約束のもとに、お艶を連れ出す手伝いをしたはずなのに! こっちの気をつたえるどころか、そのため、はからずも左膳さまの激しい怒りを買ってもあのとおり最後まで知らぬ顔の半兵衛をきめていやがるッ!
眼中人のない丹下左膳に、何もかも知りつくした心を向けていた櫛まきお藤、もうこうなれば、もとより眼中に人はないのだ。
娘の恋が泪《なみだ》の恋なら、お藤の恋は火の恋だ。
水をぶっかけられて消えたあとに、まっ黒ぐろに焼けのこった蛇の醜骸《しゅうがい》。
復讐!
櫛まきお藤ともあろうものが小むすめ輩《やから》に男を奪られて人の嘲笑《わらい》をうけてなろうか――身もこころも羅刹《らせつ》にまかせたお藤は胸に一計あるもののごとく、とっぷりと降りた夜のとばりにまぎれて、ひそかに母屋の縁へ。
縁の端は納戸。
その納戸の障子に、大きな影法師が二つ。もつれあってゆれていた……。
「ねえお艶、そういうわけで」とお艶の手を取った老母さよの声は、ともすれば、高まるのだった。
「殿様も一生おそばにおいてくださるとおっしゃるんだから、お前もその気でせいぜい御機嫌《ごきげん》を取り結んだらどうだえ。あたしゃ決してためにならないことは言わないよ。栄三郎さんのほうだって、殿様にお願いして丹下さまのお腰の物を渡してやったら、文句なしに手を切るだろうと思うんだがねえ」
お艶は、行燈のかげに身をちぢめる。
「まあ! お母さんたら、情けない! 今になってそんな人非人《ひとでなし》のことが――」
「だからさ、だから何も早急におきめとは言ってやしないじゃないか。ま、とにかくちょっとお化粧《けしょう》をしてお酒の席へだけは出ておくれよ。ね! 笑って、後生だからにこにこして……! さっきからお艶はまだかってきつい御催促なんだよ。さ、いい年齢《とし》をしてなんだえ、そんなにお母さんに世話をやかせるもんじゃないよ。あいだに立ってわたしが困るばかりじゃないか――はいただいま参ります! ねえ、さ、髪をなおしてあげるから」
「いやですったら嫌ですッ!」
とお艶が必死に母の手を払った時、障子のそとに静かな衣《きぬ》ずれの音がとまった。
「今晩は……」
「こんばんは……おさよさんはいますか」障子のむこうに忍ぶ低声《こごえ》がしたかと思うと、そっと外部《そと》からあけたのを見て、おさよははっと呼吸をつめた。
濃《こ》いみどりいろの顔面、相貌《そうぼう》夜叉《やしゃ》のごとき櫛まきお藤が、左膳の笞《しもと》の痕《あと》をむらさきの斑点《ぶち》に見せて、変化《へんげ》のようににっこり笑って立っているのだ。
ずいとはいりこむと、べったりすわって斜めにうしろの縁側《えんがわ》を見返ったお藤、「おさよさん、お前さん何をそんなにびっくりしているのさ。殿
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