ははは、りっぱにきまったぞ源十、おれあ貴様の血が虹《にじ》のように飛ぶのを見た。たしかに見たのだ!」
 源十郎はくしゃみをする前のような奇妙な顔をした。
「…………」
「だから貴様はすでに死んだ。おれに斬り殺されたのだ。そこに立っておるのは貴様の亡者だよ。あはははは、戦わずして勝敗を知る。剣禅《けんぜん》一|致《ち》の妙諦《みょうてい》だな」
 源十郎も蒼い頬に苦笑を浮かべて、
「勝手なことをいう――」
 と刀をおろした時、周囲をまごまごしていた土生仙之助が仲にはいった。
「同士討ちの機ではござるまい。まま御両所、ここは仙之助に免じておひきください」
 左膳は口を曲げて笑った。
「なんでえ今ごろ! 気のきかねえ野郎だなあ!」
 そして乾雲丸を鞘におさめて、さっさと離庵《はなれ》へはいっていった。
 立ち去ろうとする源十郎を、仙之助がぶらさがるように抱きとめて戸内へつれこむ。
 まもなく手が鳴っておさよが呼ばれたのは、庵室の三人、これから夜へかけて仲なおりの酒盛り……例によってそのうちお艶が引き出されることだろうが――。
 うら木戸のそばに納屋《なや》がある。
 薪《たきぎ》、柴《しば》など積みあげてあるそのかげ。
 昼間でさえ陽がとどかないで、年中しめった木の臭気《しゅうき》がむれている小屋のうしろ。いまは夕ぐれ間近いうそ寒さがほの暗くこめて、上にかぶさる椎《しい》の枝から落葉が雨と降るところに。
 一組の男女。
 櫛まきお藤とつづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉が、地にしゃがんで話しこんでいた。
 お藤は、燃える眼を与吉の口もとに注いで、半纒《はんてん》の裾を土に踏むのもかまわず、とびつくようににじり寄っている。
「それじゃあ何かえ、お前の言うこと、うそじゃあないんだね?」
 その声のうわずっているのに、与吉はびっくりしてあたりを見まわした。
「姐御、そう肝《かん》が高ぶっちゃ話がしにくい。いえね、あっしもよっぽど黙ってようかと考えたんだが、あんまり姐御がかわいそうだから思いきってぶちまけるだけでね、何も姐御にこんな嘘をついたっておもしろおかしくもなかろうじゃありませんか。いえさ、これあただあっしの見当じゃあねえんだ。まあいわば丹下の殿様が白状したようなもんだから、まず動きのねえところでしょうぜ」
 さっとお藤の顔から血の気が引くと、悪寒《おかん》に襲われたように細かくふるえ出して、
「白状……って、丹下さまが何かおいいだったかえ?」
「さあ、そうきかれると困るんだが」と与吉はわざとひょうきんに頭をかいて、「白状でもねえな。じつあ寝言なんでさあ。へえ、その寝言を聞いてね、あっしが内密に探りを入れると――」
 こう言いさして、棒片《ぼうきれ》でしきりに地面を突ついている与吉は、お藤にうながされてあとをつづけた。
 それによると。
 このごろ左膳のようすがどことなく変わってきていることは、思いをかけているだけにお藤は誰よりも先に気がついていたが、朝夕出入りして親しく身辺の世話をする与吉にはそれがいっそう眼についてならなかった。
 溜息《ためいき》する左膳。
 考えこむ左膳。
 ――ついぞ見たことのない左膳である。で、それとなく注意していると、左膳はよく寝言をいう。弥生《やよい》という名。
 弥生と言えば、女に相違ない……!
 と、それから与吉こっそりかぎまわってみると、はたして! もと乾雲丸を蔵していた根津あけぼのの里の剣道指南小野塚鉄斎の娘に弥生というのがあって、左膳のために父と刀を失ってから行方も知れずになっているという。
「この弥生ってえのに丹下様が御執心《ごしゅうしん》なりゃこそ、ちっとのことでああ姐御《あねご》をひでえめにあわせるんだ。それを思うと、あっしゃあ口惜しくてならねえ!」
 いい気持にしゃべりながら何ごころなくひょいとお藤を見あげた与吉、思わずどうッ! と尻もちをついて叫んだ。
「あ! 姐御! なんて顔をするんだ!」
 恋の神様が桃色なら?
 嫉妬《しっと》の神は全身|呪詛《じゅそ》のみどりに塗《ぬ》られていよう!
 その緑面の女夜叉《おんなやしゃ》を与吉はいま眼のあたりに見たのだった。

 靄然《あいぜん》として暮色の迫るところ。
 物置小屋のかげに、つづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉はつばをのんで、蹌踉《そうろう》と椎の老幹に身をささえているお藤のようすを心配げに見あげた。
 丹下左膳が弥生という娘を恋している――と聞いたお藤は、さてはッ! と思うと身体じゅうの血が一時に凍って、うつろな眼があらぬ方へ走るのだった……紙のような唇をわなわなとおののかせて。
 嫉心鬼心《しっしんきしん》。
 それが眼に見えぬほむらとなって、櫛まきお藤の凄艶《せいえん》な立ち姿を蒼白いたそがれのなかに浮き出している。
 与吉はわ
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