、殿様、もったいのうございます! わたしこそお艶に代わって……」
言いかけて、おさよがあわてて口をつぐむのを、源十郎は知らん顔に聞き流して声を低めた。
言うところは、こうである。
あの、女のさけび声。
あれは、狂暴丹下左膳が、離室《はなれ》で櫛まきお藤を責め苛《さいな》んでいるのだという。
そう聞けば、おさよにも思いあたる節《ふし》があった。
源十郎がお艶の駕籠をかつぎこませた暴風雨《あらし》の晩、夜更《よふ》けて、というよりも明け方近く、庭口にあたってただならぬ人声を耳にしたおさよが、そっと雨戸をたぐってのぞくと、濡れそぼれた丹下左膳、土生《はぶ》仙之助の一行が、ひややかに構えたお藤を憎さげにひったてて、今や離室の戸をくぐるところだったが――。
それからこっち、お藤は浅草の自宅《いえ》へも帰されずに、離室からは毎日のように左膳の怒号《どごう》にもつれてお藤の泣き声が洩《も》れているのだ。
事ありげなようす! とは感じたが、もとより老下女などの顔を出すべき場合でないので、気にかかりながらもお艶の身を守る一方にとりまぎれていたけれど、いまとなって心に浮かぶのは。
あの丹下左膳という御浪人。
かれは亡夫宗右衛門と同じ奥州中村相馬様の藩士で、自分やお艶とも同郷の仲だが、それがなんでもお刀探索《かたなたんさく》密命を帯びてこうして江戸にひそんでいるとかと、いつかの夜のお居間のそとで立ち聞いたことがある。
道理で、辻斬りが流行《はや》るというのにこのごろはなお何かに呼ばれるように左膳は夜ごとの闇黒《やみ》に迷い出る――もう一口《ひとふり》の刀さがしに!
しかるに!
源十郎にないしょにお艶のもとに忍んで話しこんでいるうちに栄三郎のその後の模様もだいぶ知れたが、お艶の口によると、栄三郎はいま、二本の刀のうち一本をもって、他のひとつを必死に物色しているとのこと。
さては! と即座に胸に来たおさよだったが、その場はひとりのみこんで何気《なにげ》なくよそおったものの、納戸《なんど》のお艶が、それとなく窓から左膳の出入りをうかがっては、いかにもして栄三郎へしらせたがっていることも、おさよはとうから見ぬいていたから、いよいよ左膳と栄三郎は敵同士《かたきどうし》、たがいに一対の片割れを帯して、その二刀をわが手に一つにしたいと求めあっているに相違ない……これだけのことが、湯気《ゆげ》をとおして見るようにぼんやりながらおさよの頭にもわかっていた。
ところが今、源十郎はお艶の一生を所望している! おめかけとはいえ、終身奉公ならば奥方同然で老いさきの短い母の自分も何一つ不自由なく往《ゆ》くところへ行けようというもの。それに、お艶の素性《すじょう》が知れて武家出とわかれば、おもてだって届けもできれば披露《ひろう》もあろう。
そうなれば、かわいいお艶の出世とともに、自分はとりもなおさず五百石の楽隠居!――と欺《だま》されやすいおさよは、頭から源十郎のでたらめを真に受けて、ここは一つ栄三郎への手切れのつもりで、何よりもそのほしがっている一刀を、追って殿様の源十郎に頼んで、左膳から奪って下げ渡してもらおう……おさよはさっそくこう考えた。
母の庇護《ひご》があればこそ、これまで化物屋敷に無事でいたお艶! その母の気が変わって、今後どうして栄三郎へ操《みさお》を立て通し得よう?
人身御供《ひとみごくう》の白羽の矢……それはじつに目下のお艶のうえにあった。
が、源十郎よくおさよの乞いをいれて、左膳と乾雲丸《けんうんまる》とを引き離すであろうか。
――思案に沈んでおさよが、耳のそばに、
「お藤が、おれに加担《かたん》してお艶をかどわかしたために、刀をうばいそこねたといってな、左膳め、先日から猛《たけ》りたっておるのだから、そのつもりで年寄り役にとりしずめてくれ」
という源十郎の声でわれに返ると、膝までの草を分けていつのまにかもう離室《はなれ》のまえ。
カッ! とただよう殺気をついて左膳の罵声がする。
「うぬッ! 誰に頼まれてじゃまだてしやがった? いわねえか、この野郎ッ……!」
つづいて、ぴしり! と鞭でも食わす音。
「ほほほほ、お気の毒さま! 野郎はとんだお門《かど》ちがいでしたねえ」
櫛まきお藤はすっかりくさっているらしい。
「やいッ! 汝《うぬ》あいってえなんだって人の仕事に茶々《ちゃちゃ》を入れるんだ? こらッ、こいつッウ!……てッ、てめえのおかげで、奪《と》れる刀もとれなかったじゃねえかッ! な、なんとか音を立てろいッ音を!」
「ほほほ、音を立てろ――だと! 八丁堀《はっちょうぼり》もどきだね」
「なにいッ!」
咆吼《ほうこう》する左膳、棕櫚《しゅろ》ぼうきのような髪が頬の刀痕にかぶさるのを、頭を振ってゆすりあげながら
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