ここにおりますッ!」
「お艶」
という最後の声が耳のそばで大きくひびいたので、お艶がはっと眼をあけてみると……。
栄三郎ではない――母のおさよが盆に何かのせて来て、しゃがんでいた。
「お艶、お前、好きだったよねえ。お汁粉《しるこ》ができたから持って来たよ。さ、起きておあがり」
おさよは娘をのぞきこんで、
「お前、なんだかうなされていたようだね」
「ええ、こわい夢……夢でよかった」
まだぼんやりして上身を起こしたお艶は、ほつれた髪を手早く掻きあげながら、眠りのなかで泣いていたものとみえて、巻いて枕にしていた座蒲団のはしが涙に濡れているのに気がつくと、そっとうしろへかくして悲しく笑った。
寝起きの頬に赤くあとがついて、男ごころをそそらずにはおかない悩ましさ。
母と娘、せまい幽室《ゆうしつ》に無言のまま向かいあっている。
本所《ほんじょ》法恩寺《ほうおんじ》橋まえ鈴川源十郎屋敷の一間《ひとま》である。
櫛まきお藤のさしがねで、刀渦《とうか》にまぎれ、巧妙にお艶の身柄をさらい出した源十郎は、深夜の往来に辻駕籠《つじかご》を拾ってまんまと本所の家へ運びこんだまではよかったが……。
いつぞや老下女おさよの話に出た娘というのがこのお艶であろうとは、さすがの源十郎、ゆめにも気がつかなかった。
駕籠からひきずり出されたお艶を見て、おさよはのけぞるほど愕《おどろ》いたが、そこは年の功、日ごろの源十郎を知っているので、母親ということをさとられずに、かげになりそれとなくお艶の身を守るのが、この際第一の上分別ととっさに考えた。おさよはすばやくお艶に眼くばせしてその意を送り、おもてはあくまでも源十郎の命を大事にすると見せかけて、お艶を奥にあらあらしく監禁《かんきん》しながら、うらへまわっては、母親としてどれだけの切ない心づかいをしなければならなかったろう。運はお艶を見すてず、押しこめられた鬼の窟《あな》にありがたい母の手が待っていたのである。
奥まった納戸《なんど》。
くる日も来る日も、お艶にはかびくさい囚《とら》われの朝夕があるだけ――しかしお艶の起居を看視するのはおさよの役だったので、おさよは誰にも疑われずに今のようにそっとお艶の部屋へ忍んでは話しこんで慰《なぐさ》めることも、好きな食物も運び得たのだったが母と娘……とはまだ屋敷じゅうひとりとして見ぬいたものはない。
酒の場には必ずお艶がひきだされる。
それでお艶は、窓から見える草間の離室《はなれ》へ、あさに晩にこっそり出入りしている隻眼《せきがん》のお侍が、栄三郎様と同じ作りの陣太刀を佩《は》いていることを知って、なんとかして栄三郎様へしらせてあげたいとは思うが――翼《はね》をとられた小鳥同様の身。
が、源十郎はあせるだけで、ゆっくりお艶のそばへもよれず、どうすることもできなかった。いつでも口説《くど》きにかかったりしていると、きまって風のようにおさよが敷居に手を突いて、人が来たという。何か御用は? と顔を出す。源十郎は舌打ちするばかりだった。
いまも、その源十郎のかん走った声が、あし音とともに廊下を近づいてくる。
「さよ! さよ! こらッ、さよはおらぬか」
たちまち身をすくませるお艶を制して、おさよはあわてて部屋を出た。
「あれ、お母さん! またこっちへ来ますよ。早く行っておさえてください……」
お艶が隅に小さくなるのを、おさよは、
「いいからお前は黙ってまかせておおきってば!」
と低声に叱って障子をしめると、おもて座敷をさして廊下を急いだが、そのまも、
「おさよッ!……はて、どこへ行ったあの婆あは?」
という源十郎の声が、突き刺すように近づいてくる。
本所の化物屋敷鈴川の家には、午《ひる》さがりながら暗い冷気が鬱《うっ》して、人家のないこのあたりは墓所のようにひっそりしていた。
小走りに角をまがったおさよ、出あいがしらに源十郎のふところに飛びこんだ。
「なんだ? 婆あか。俺に抱きついてどうする? ははははは、それよりもおさよ、あんなに呼んだのになぜ返事をせん! また、お艶の部屋へ行きおったな」
源十郎は瞬間太い眉をぴくつかせて、
「どうも変だぞ? 貴様、あの娘となんぞ縁故でもあるのか」
とおさよをのぞくと、どきりとしたおさよはすぐさま惨《みじ》めに笑いほごした。
「いいえ殿様、とんでもない! ただ若いくせにあんまり強情な娘で、それに殿様がお優しくいらっしゃるので、いい気になりましてねえ、そばで見ていてもはがゆいようでございますから、この婆あがちょくちょく搦手《からめて》から攻めているんでございますよ」
とおさよはなんとかしてあやなす気でいっぱいだ。
「そうか。おれも荒いことは好まんから恥ずかしながらあのままにしてあるが……まま貴様、なにぶん頼む。
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