かん》と流れた。
心づくしとはわかっていても、悩みをもつ栄三郎には咽喉《のど》へ通らない食事であった。
やがて無口の孫七は、むっつりして粗朶《そだ》を刈りに立つ。
食客《いそうろう》の栄三郎は、いつものようにすぐに野猿梯子《やえんばしご》を登って与えられた自室へ。
と言っても頭のつかえる天井《てんじょう》うらだ。
所在なさに横になった諏訪栄三郎。
思うまいとして眼さきをよぎるのはお艶のすがたであった。
あの首尾の松の夜。
闘間《とうかん》にお艶を失った彼は、風雨のなかを御用提灯に追われ追われて対岸へ漕ぎつき、上陸《あが》るとすぐ泰軒とも別れて腰の坤竜丸《こんりゅうまる》を守って街路に朝を待ったが……あかつきの薄光《はっこう》とともに心に浮かんだのが、この千住竹の塚に住むお兼母子のことであった。
栄三郎が生まれたとき、母の乳の出がわるくて千住の農婦お兼を乳母《うば》として屋敷へ入れた。お兼には孫七という栄三郎と同《おな》い年の息子があったが、それをつれて一つ屋根の下に起き臥《ふ》ししているうちにいつしかお兼は栄三郎を実子のように思い、栄三郎もまたお兼をまことの母のごとくに慕うようになった。これは栄三郎が乳ばなれしてお兼に暇が出たのちもずっとつづいて、盆暮《ぼんく》れには母子そろって挨拶にくるのを欠かさない――いまは息子の孫七があとをとって、自前《じまえ》の田畑を耕し、ささやかながら老母を養っている。
口重《くちおも》で人のいい乳兄弟の孫七といつまでも自分の子供と思っている乳母のお兼。
かれらこそはしばらくこの傷ついたこころをかばってくれるであろう……まずさしあたり雨露のしのぎに。
こう考えて、栄三郎がこの竹の塚の孫七方へ顎《あご》をあずけてからもう何日かたったが、武士には武士の事情があろうと、お兼婆さんも孫七も何にもきかぬし、栄三郎も何もいわなかった。だが、それだけ、ひとりで背負《しょ》わねばならぬ栄三郎の苦しみは、身体があけばあくほど大きかったといわなければならない。
油じみた蒲団|掻巻《かいまき》に包まれて、枕頭の坤竜を撫《ぶ》しながら、かれはいくたび眠られぬ夜の涙を叱ったことであろうか。
半夜《はんや》夜夢さめて呼ぶお艶の名。
が、もとより恋の流れに棹《さお》さしていさえすればよい栄三郎ではなかった。若い血のときめきと武門の誓い!
お艶と乾雲《けんうん》!
この一つのために他を棄てさることのできないところに栄三郎のもだえは深かったのだ。
毎夜のように首尾の松の下に立って、河へ石を三つなげて泰軒に会ってはくるが、お艶の行方も乾雲丸の所在《ありか》も、せわしない都にのまれ去って杳《よう》として知れなかった。
加うるに弥生のこと。
鳥越の兄藤次郎のこと。
夜泣きの刀とともに泣く栄三郎の心だった。
――裏山のかけひの音が、くすぐるようにごろ寝している栄三郎の耳に通う。かれはむっくりと起きあがって、窓明りに坤竜丸の鞘を払った。
うすぐらい部屋に、一方の窓から流れこむ陽が坤竜丸の剣身に映えて、煤《すす》だらけの天井に明るい光線《ひかり》がうつろう。
冬近い閑寂《かんじゃく》な日、栄三郎は、千住竹の塚、孫七の家の二階にすわって、ながいこと無心に夜泣きの脇差を抜いて見入っている。鍔元《つばもと》から鋩子先《ぼうしさき》と何度もうら表を返して眺めているうちに、名匠の鍛えた豪胆不撓《ごうたんふとう》の刀魂が見る見る自分に乗り移ってくるようにおぼえて、かれは眼をあげて窓のそとを見た。
竹格子《たけごうし》を通じて瑠璃《るり》いろの空が笑っている。
小猫の寝すがたに似た雲が一つ、はるか遠くにぽっかりと浮かんでいるのが、江戸の空であろう……栄三郎は刀をしまうと、こんどはぽつんと壁によりかかって、眼をつぶって考え出した。
世の中はすべて思うままにならないことの多いなかに、一ばん自分でどうにでもできそうで、それでいていかんともなし難いものがみずからの心であるような気を、彼はこのごろ身にしみて味わわなければならなかった。
それはことに、かれが鉄斎先生の娘弥生どのを思いおこすごとに、百倍もの金剛力をもって若い栄三郎を打つのだった。
嫌いではない。決してきらいではない!
が、単に嫌いでないくらいのことでは、どうあってもひたすらに心を向けるわけにはいかないところへ、先方から押しつけるように持ってこられると、ついその気もなくはね返したくなるのが男女|恋戯《れんぎ》のつねだという。
栄三郎は弥生を、きらい抜くというのではなかったが、いかに努めても好きになれない自分のこころを彼は自分でどうすることもできなかったのだ。なぜ? ときかれても栄三郎は答え得なかったろうし、ただつとめて好きになる要もなければ、また
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