からともなくただよって、忠相は、満を持して対峙《たいじ》している光景《さま》を思いやると、われ知らず口調が鋭かった。
「曲者は手ごわいとみえるが、誰が向かっておる」
「岩城《いわき》と新免《しんめん》にござりますが、なにぶん折りあしくこの霧《きり》で……」
「門前――と申したな。斬られた者はいかがいたした?」
「商家の手代風《てだいふう》の者でございますが、この肩さきから斜めに――いやもう、ふた目と見られませぬ惨《むご》い傷で……」
「長屋で手当をしてつかわしておりますが、所詮《しょせん》助かりはすまいと存じまする」
言うまも、剣を中に気押し合うけはいが、はちきれそうに伝わってくる。
「無辜《むこ》の行人をッ! 憎いやつめ! しかも大岡の屋敷まえと知っての挑戦であろう」
太い眉がひくひくとすると、忠相は低く足もとの大作を疾呼《しっこ》した。
「よし! いけッ! 手をかしてやれ、斬り伏せてもかまわぬ」
そして、柄をおさえて走り去る大作を見送って、しずかに部屋へ帰りながら、血をみたような不快さに顔をしかめた忠相は、ひとり胸中に問答していた。
このけさ掛け斬りの下手人が、左腕の一剣狂であることは、自分は最初から見ぬいていた。それをさっき泰軒に、やれ左ききであろうの、数人に相違ないのと言ったのは、泰軒といえども自分以外の者である以上、あくまでも探査の機密を尊《たっと》んでおいて、ただそれとなくその存意をたぐり出すために過ぎなかったのだが――。
なかでは、泰軒が帯を締めなおしていた。
天下何者にも低頭《ていとう》しないかれも、大岡越前のためにはとうから身体を投げ出しているのだ。
「聞いたぞ、おれが出てみる」
「よせ!」忠相は笑った。
「貴様に怪我《けが》でもされてはおれがすまん」
「なあに、馬鹿な」
一言吐き捨てた泰軒は、
「帰りがけにのぞくだけだ……では、また来る」
と、もう闇黒《やみ》の奥から笑って、来た時とおなじように庭に姿を消すが早いか、気をつけろ! と追いかけた忠相の声にもすでに答えなかった。
無慈悲の辻斬り! かかる人鬼の潜行いたしますのも、ひとえに忠相不徳のなすところ――と慨然《がいぜん》と燈下に腕をこまぬく越前守をのこして、陰を縫って忍び出た泰軒が、塀について角へかかった時!
ゆく手の門前に二、三大声がくずれかかるかと思うと、フラフラと眼のまえに迷い立った煙のような人影?
ぎょッ! として立ちどまったのをすかし見ると、長身|痩躯《そうく》、乱れた着前《まえ》に帯がずっこけて、左手の抜刀をぴったりとうしろに隠している。
「せっかく生きとる者を殺して、何がおもしろい?」
泰軒の声は痛烈なひびきに沈んだ。
「うん? 何がおもしろい? お前には地獄のにおいがするぞ」
「…………」
が、相手は黙ったまま、生き血に酔ったようによろめいてくる。刀の尖《さき》が小石をはじいてカチ! と鳴った。
「おれとお前、見覚えがあるはずだ。さ! 来い! 斬ってみろ俺を」
こういい放った泰軒は、同時にすくなからず異様な気持にうたれて前方《まえ》をのぞいた。片腕の影がすすり泣いていると思ったのは耳のあやまりで、ケケケッ! と、けもののように咽喉笛《のどぶえ》を鳴らして笑っていたのだった。
「斬れ! どうだ、斬れまいが! 斬れなけりゃあおとなしくおれについて来い」
悠然と泰軒が背をめぐらした間髪、発! と、うしろに跳剣《ちょうけん》一下して、やみを割った白閃が泰軒の身にせまった。
垣根に房楊枝《ふさようじ》をかけて井戸ばたを離れた栄三郎を、孫七と割りめしが囲炉裡《いろり》のそばに待っていた。
千住《せんじゅ》竹の塚。
ほがらかな秋晴れの朝である。
軒の端の栗の梢に、高いあおぞらがのぞいて、キキと鳴く小鳥の影が陽にすべる。
「百舌《もず》だな……」
栄三郎はこういって膳に向かった。そして、
「いかにも田舎《いなか》だ。閑静でいい。こういうところにいると人間は長生きをする」
と、改めてめずらしそうにまえの広場に大根を並べ乾《ほ》してそれにぼんやりと、うすら寒い初冬の陽がさしているのを眺めていた。
孫七は黙って飯をほおばっていた。
鶏が一羽おっかなびっくりで土間へはいろうとして、片脚あげて思案している。
「七五三は人が出ましたろう。神田明神《かんだみょうじん》なぞ――」
お兼《かね》婆さんが給仕盆を差しだしながら、穂《ほ》をつぐように話しかけると、
「お兼もいっしょに食べたらどうだ? そう客あつかいをされては厄介者の私がたまらぬ」
と栄三郎はすすめてみたが、お兼も箸をとろうともしなければ、息子の孫七も口を添えないので、三人はそれきり言葉がとぎれて、黒光りのする百姓家のなかに貧しい朝餉《あさげ》の音が森閑《しん
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