ぬっと顔を突き出した。
「越前、これ、これじゃよ。この顔だ。存じおろうが」
忠相は、下座からその面をしげしげ見入っているばかり……じっと語をおさえて。
引っこみのつかない将軍がいらいらしだして、お小姓はじめ並みいる一同、取りなしもできず度を失ったとき、
「さようにござりまする」
憎いほど落ちつき払った越前守の声に、お側御用お取次ぎ高木伊勢守などは、まずほっとしてひそかに汗のひくのを感じた。
「うむ。どうだな?」
「恐れながら申しあげまする――上《かみ》には、よほど以前のことでございまするが、忠相が伊勢の山田奉行勤役中、殺生厳禁《せっしょうげんきん》の二見ヶ浦へ網を入れました小俣《おまた》村百姓源兵衛と申す者の伜、源蔵という狂人によく似ていられまする」
狂者にそっくりとはなんという無礼!
と理由を知らない左右の臣がささやき渡ると、
「そうか。源蔵に似ておるか」
にっこりした吉宗、御簾の中から上機嫌に、
「小俣村の源蔵めも、そのほうごときあっぱれな奉行のはからいを、今さぞ満足に思い返しておるであろう……これよ、越前、こんにちをもって江戸おもて町奉行を申しつくる。吉宗の鑑識《めがね》、いやなに、源蔵の礼ごころじゃ。このうえともに、な、精勤《せいきん》いたせ。頼むぞ」
「はっ、おそれ入り――」
と言いかけた忠相のことばを切って、音もなく御簾がおりると、そそくさと立ちあがる吉宗の姿が、夢のようにすだれ越しに見えたのだったが……。
かつて自分が叱りつけた源六郎さま。
それがもうあんなりっぱに御成人あそばされて――お笑いになる眼だけがもとと変わらぬ。
ほほえみと泪《なみだ》。
すり足で退出するお城廊下の長かったことよ。
あの日、大役をお受けしてからこのかた。
南町奉行としての自分は、はたして何をし、そして、なにを知ったか?
思えば、風も吹き、雨も降った。が、いますべてを識りつくしたあとに、たった一つ残っている大きな謎《なぞ》。
それは、人間である。
人のこころの底の底まで温く知りぬいて、善玉《ぜんだま》悪玉《あくだま》を一眼見わけるおっかない大岡様。
たいがいの悪がじろりと一|瞥《べつ》を食っただけで、思わずお白洲の砂をつかむと言われている古今に絶した凄いすごいお奉行さまにも、煎《せん》じつめれば、この世はやはりなみだと微笑のほか何ものでもなかった……かも知れない。
夢。
――という気が、忠相はしみじみとするのだった。
で、うっとりした眼をそばの泰軒へ向けると、会話《はなし》のないのにあいたのか、いつのまにやらごろりと横になった蒲生泰軒、徳利に頭をのせてはや軽い寝息を聞かせている。
ばっさりと倒れた髪。なかば開いた口。
強いようでも、流浪《るろう》によごれた寝顔はどこかやつれて悲しかった。
「疲れたろうな。寝ろ寝ろ」
とひとり口の中でつぶやいた忠相は、急に何ごとか思いついたらしくすばやく手文庫《てぶんこ》を探った。
「こいつ、金がないくせに強情な! 例によって決して自分からは言い出さぬ。起きるとまたぐずぐずいって受け取らぬにきまっとるから、そうだ! このあいだに――」
忠相が、そこばくの小判を紙に包んでそっと泰軒の袂《たもと》へ押し入れると、眠っているはずの泰軒先生、うす眼をあけて見てにっことしたが、そのまま前にも増して大きないびきをかき出した。
とたんに、
庭前を飛んで来たあわただしい跫音《あしおと》が縁さきにうずくまって、息せききった大作の声が障子を打った。
「申しあげます」
「なんだ」さッとけわしい色が、瞬間越前守忠相の顔を走った。
緑面女夜叉《りょくめんにょやしゃ》
「なんだ騒々しい! 大作ではないか。なんだ」
忠相《ただすけ》が室内から声をはげますと、そとの伊吹大作はすこしく平静をとりもどして、
「出ました、辻斬《つじぎ》りが! あのけさがけの辻斬り……いま御門のまえで町人を斬り損じて、当お屋敷の者と渡りあっております」
「辻斬り? ふんそうか」
とねむたそうにうなずいた越前守は、それでも、これだけではあんまり気がなさそうに聞こえると思ったものか、取ってつけるようにいいたした。
「それは、勇ましいだろうな」
「いかが計らいましょう?」
「どれ、まずどんなようすか」
ようよう腰をあげた忠相が、障子をあけて縁端ちかく耳をすますと、
月も星もない真夜中。
広い庭を濃闇《のうあん》の霧が押し包んで、漆黒《しっこく》の矮精が樹から木へ躍りかわしているよう――遠くに提灯の流れて見えるのは、邸内を固める手付きの者であろう。
池の水が白く光って風は死んでいた。
ただ、深々と呼吸《いき》づく三|更《こう》の冷気の底に、
声のない気合い、張りきった殺剣《さつけん》の感がどこ
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