な?」
と、上段の忠右衛門がはったとにらむと、
「乱心? 馬鹿を申せ。われは松平源六郎である。縄をとけッ」
「だまれ」忠右衛門も声をはげまして「松平源六郎とは恐れ多いことを申すやつじゃ。なるほど紀州第六の若様は源六郎殿とおおせられるが、いまだ御幼年ながら聡明叡智《そうめいえいち》のお方で、殺生禁断《せっしょうきんだん》の場所へ網をおろすような不埓《ふらち》はなさらんぞ。そのほうまさしく乱心いたしおるとみえる、狂人であろう汝は」
「狂人とは何事! 余はまったく紀州の源六郎に相違ない」
「またしても申す。これ、狂人、二度とさような言をはくにおいてはその分にさしおかんぞ。汝がすみやかに白状せん以上、待て! いま見せてやるものがある」
こう言って忠右衛門が呼びこませたのが、小俣《おまた》村の百姓源兵衛という男、名主そのほか差添えがついている。
「源兵衛、面《おもて》をあげい。とくと見て返答いたせ。これに控《ひか》えおるはそのほうの伜《せがれ》源蔵と申す者に相違なかろう? どうじゃ」
そのときに、くだんの源兵衛、お白洲《しらす》をもはばからず源六郎のそばへ走りよって、「ひゃあ、伜か、お前気がふれて行方をくらましたで、みんなが、はあ、どんなに心配ぶったか知んねえだよ。やっとのこってこのお奉行所へ来てるとわかって、いま名主《なぬし》どんに頼んで願えさげに突ん出たところだあな。だが、よくまあ達者で……」
驚いたのは源六郎だ。
「さがれッ! えいッ、寄るな。伜とはなんだ。見たこともないやつ」
と懸命に叱りつけたが、百姓源兵衛に名主をはじめ組合一統がそれへ出て、口々に、
現在の親を忘れるとはあさましいこった。
どうか、はあ、気をしずめてくんろよ。
これ源蔵や、よく見ろ。われの親父《おやじ》でねえか。
などと揃いもそろって狂人|応対《あつかい》をするので、源六郎歯ぎしりをしながら見事に気がふれたことにされてしまった。
そのありさまに終始ほほえみを送っていた忠右衛門は、やおら言いわたした。
「さ、この狂者は小俣《おまた》村百姓源兵衛のせがれ源蔵なるものときまった。親子でいて父の顔を忘れ、見さかいがつかんとは情けないやつだが、掟《おきて》を犯して二見ヶ浦で漁をするくらいの乱心なれば、そういうこともあり得ようと、狂気に免じ、今日のところは心あってそむいたものとみとめず、よって源蔵儀は父源兵衛に引き渡しつかわす。十分に手当をしてやるがよい――源蔵ッ! 狂人の所業《しょぎょう》とみなしてこのたびは差し許す、重ねてかようなことをいたさんよう自ら身分を尊《とうと》び……ではない、第一に法をたっとばんければいかん。わかったな、うむ、一同、立ちませい」
というこの四方八方にゆきとどいたさばきで、源六郎はおもてむきどこまでも百姓の子が乱心したていに仕立てられて、かろうじて罪をのがれ、面倒もなくてすんだのだったが、後の八代将軍吉宗たる源六郎もちろん愚昧《ぐまい》ではない。天下の大法と紀州の若君との苦しい板ばさみに介《かい》して法も曲げず、源六郎をもそこなわず、自分の役儀も立てたあっぱれな忠相の扱いにすっかり感服して、伊勢山田奉行の大岡忠右衛門と申すは情知《じょうち》兼ねそなわった名|判官《はんがん》である。
と、しっかり頭にやきついた源六郎は、その後、淳和奨学両院別当《じゅんなしょうがくりょういんべっとう》、源氏の長者八代の世を相続して、有徳院《うとくいん》殿といった吉宗公になったとき、忠右衛門を江戸表へ呼びだして、きょうは将軍家として初のお目通りである。
越前守忠相と任官された往年の忠右衛門ぴったり平伏してお言葉のくだるのを待っていると――。
しッ、しい――ッ、と側で警蹕《けいひつ》の声がかかる。
と、濃《こ》むらさきの紐が、葵《あおい》の御紋散しでふちどった御簾《みす》をスルスルと捲きあげて、金襴《きんらん》のお褥《しとね》のうえの八代将軍吉宗公を胸のあたりまであらわした。
裃《かみしも》の肘を平八文字に張って、忠相のひたいが畳にすりつく。
お声と同時に、吉宗の膝が一、二寸刻み出た。
「越前、そのほう、余を覚えておろうな?」
はっとした忠相、眼だけ起こして見ると、中途にとまった御簾の下から白い太い羽織の紐がのぞいて……その上に細目《こまかめ》をとおして、吉宗の笑顔がかすんでいた。
むかし、山田奉行所の白洲の夜焚き火のひかりに、昂然《こうぜん》と眉をあげた幼い源六郎のおもかげ。
忠相の眼にゆえ知らぬ涙がわいて手を突いている畳がぽうっとぼやけた。
が、かれはふしぎそうに首をひねった。
「恐れ入り奉りまする――なれど、いっこうわきまえませぬ」
すると吉宗、何を思ったか、いきなり及《およ》び腰に自ら扇子《せんす》で御簾をはねると、
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