こりゃまさに禅師《ぜんじ》に一|喝《かつ》を食ったが、いくら江戸でも、左腕の辻斬りがそう何人もいて、みな気をそろえて辻斬りを働こうとも考えられぬ」
「だから、おれは初めから、これは隻腕の一剣客が闇黒《やみ》に左剣をふるうのかも知れぬといっておるではないか」
「ふうむ。なるほど、一理あるぞこれは! して、何奴《なにやつ》かな、その狂刃の主《ぬし》は?」
「まあ待て。今におれが襟がみ取って引きずって来て面を見せてやるから」
大笑すると、両頬のひげが野分《のわき》の草のようにゆらぐ、忠相は心配そうな眼つきをした。
「また豪《えら》そうな! 大丈夫か。けがでもしても知らんぞ」
「ばかいえ、自源流《じげんりゅう》ではまず日本広しといえどもかく申す蒲生泰軒の右に出る者はあるまいて」
言い放って袖をまくった泰軒、節《ふし》くれだった腕を戞《かっ》! と打ったまではいいが、深夜の冷気が膚にしみたらしく、その拍子にハアクシャン! と一つ大きなくしゃみをすると、自分ながらいまの稚心《ちしん》がおかしかったとみえ、
「新刀試し胆《きも》だめしならば一、二度ですむはず……きょうで七、八日もこの辻斬りがつづくというのは、何百人斬りの願《がん》でも立てたものであろうと思われるが――」
となかば問いかける忠相の話を無視して、かれはうふふ[#「うふふ」に傍点]とふくみわらいをしながら、勝手に話題を一転した。
「お奉行さまもええが、小うるさい件が山ほどあろうな」
「うむ。山ほどある。たまには今夜のように庭から来て、知恵をかしてくれ」
「まっぴらだ。天下を奪った大盗のために箒《ほうき》一本|銭《ぜに》百文の小盗を罰して何がおもしろい?」
こう聞くと、忠相が厳然とすわりなおした。
「天下は、呉越《ごえつ》いずれが治めても天下である。法は自立だ」
「それが昔からおぬしのお定り文句だった、ははははは」
「越前、かつて人を罰したことはない。人の罪を罰する。いや、人をして罪に趨《はし》らしめた世を罰する――日夜かくありたいと神明に祈っておる」
泰軒は忠相の眼前で両手を振りたてた。
「うわあ! 助からんぞ! わかった、わかった、理屈はわかった! だがなあ、聞けよおぬし、人間一|悟門《ごもん》に到達してすべてがうるさくなった時はどうする? うん? 白雲先生ではないが、旧書をたずさえ取って旧隠《きゅういん》に帰る……」
「野花啼鳥《やかていちょう》一般《いっぱん》の春《はる》、か」
と忠相がひきとると、ふたりは湧然《ゆうぜん》と声を合わせて笑って、切りおとすように泰軒がいった。
「おぬしも、まだこの心境には遠いな」
さびしいと見れば、さびしい。
ことばに懐古の調があった。秋夜孤燈《しゅうやことう》、それにつけても思い出すのは……。
十年一むかしという。
秩父《ちちぶ》の山ふところ、武田の残党として近郷にきこえた豪族《ごうぞく》のひとりが、あてもない諸国|行脚《あんぎゃ》の旅に出でて五十鈴《いすず》川の流れも清い伊勢の国は度会《わたらい》郡山田の町へたどりついたのは、ちょうど今ごろ、冬近い日のそぼそぼ[#「そぼそぼ」に傍点]暮れであった。
外宮《げくう》の森。
旅人宿の軒行燈に白い手が灯を入れれば……訛《なま》りにも趣《おもむき》ある客引きの声。
勢州《せいしゅう》山田、尾上《おのえ》町といえば目ぬきの大通りである。
弱々しい晩秋の薄陽がやがてむらさきに変わろうとするころおい、その街上《まち》なかに一団の人だかりがして、わいわい罵《ののし》りさわぐ声がいやがうえにも行人《こうじん》の足をとめていた。
往き倒れだ。
こじきの癲癇《てんかん》だ。
よっぱらいだ。
いろんな声が渦をまく中央に、浪人とも修験者《しゅげんじゃ》とも得体の知れない総髪《そうはつ》の男が、山野風雨の旅に汚れきった長半纒《ながはんてん》のまま、徳利を枕に地に寝そべって、生酔いの本性たがわず、口だけはさかんに泡といっしょに独り講釈をたたいているのだった。酒に舌をとられて、いう言葉ははっきりしないが、それでも徳川の世をのろい葵《あおい》の紋をこころよしとしない大それた意味あいだけは、むずかしい漢語のあいだから周囲の人々にもくみ取ることができた。
代々秩父の山狭《さんきょう》に隠れ住む武田の残族《ざんぞく》蒲生泰軒。
冬夜の炉辺《ろへん》に夏の宵の蚊《か》やりに幼少から父祖古老に打ちこまれた反徳川の思念が身に染み、学は和漢に剣は自源《じげん》、擁心流《ようしんりゅう》の拳法《けんぽう》、わけても甲陽流軍学にそれぞれ秘法をきわめた才胆をもちながら、聞き伝えて、争って高禄と礼節をもって抱えようとする大藩諸侯の迎駕《げいが》を一蹴して、飄々然《ひょうひょうぜん》と山をおりたかれ泰軒は
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