。多く言うを要しない知己《ちき》の快《こころよ》さが、胸から胸へと靉靆《あいたい》としてただよう。
 夜風にそっ[#「そっ」に傍点]と気がついて、忠相は立って行って縁の障子をしめた。帰りがけに泰軒のうしろをまわりながら、
「痩《や》せたな、すこし」
「俺か……」と泰軒は首すじをなで、「何分|餌《えさ》がようないでな、はははは。しかし、そういえば、このごろおぬし眼立って肥った。やはり徳川の飯はうまいとみえる」
 越前はいささかまぶしそうに、
「相変わらず口が悪いな。どこにおるかと案じておったぞ」
「どこにもおりゃせん。と同時に、どこにでもおる。いわば大気じゃな。神韻《しんいん》漂渺《ひょうびょう》として捕捉しがたしじゃ――はははは、いや、こっちは病知らずだが、おぬしその後、肩はどうだ? 依然として凝《こ》るか」
「なに、もうよい。さっぱりいたした」
「それは何より」
「互いに達者で重畳《ちょうじょう》」
 ふたりはいっしょにぴょこりと頭をさげあって、哄然《こうぜん》と上を向いて笑った。
 が、泰軒は忠相の鬢《びん》に、忠相は泰軒のひげ[#「ひげ」に傍点]に、初霜に似た白いものをみとめて、何がなしにこころわびしく感じたのであろう。双方《そうほう》ふっ[#「ふっ」に傍点]と黙りこんで燭台の灯影に眼をそらした。
 中間部屋《ちゅうげんべや》に馬鹿ばなしがはずんでいるらしく、どっ[#「どっ」に傍点]と起こる笑い声が遠くの潮騒《しおさい》のように含んで聞こえる。
 秋の夜の静寂は、何やら物語を訴うるがごとくその縷々《るる》たる烏有《うゆう》のささやきに人はともすれば耳を奪われるのだった。
 対座して無言の主客。
 一は、いま海内《かいだい》にときめく江戸南町奉行大岡越前守忠相。他は、酒と心中しよか五千石取ろかなんの五千石……とでも言いたい、三|界《がい》無宿《むしゅく》、天下の乞食先生蒲生泰軒。
 世にこれほど奇怪な取りあわせもまたとあるまい。しかも、この肝胆《かんたん》あい照らしたうちとけよう。ふしぎといえばふしぎだが、男子|刎頸《ふんけい》の交わりは表面のへだてがなんであろう。人のきめた浮き世の位、身の高下がなんであろう! 人間忠相に対する人間泰軒――思えば、青嵐《せいらん》一過して汗を乾かす涼しいあいだがらであった。
 とは言え。
 大岡さまの前へ出て、これだけのしたい三昧《ざんまい》……巷の一|快豪《かいごう》蒲生泰軒とはそも何者?

   いすず川

「貴様、どこからはいりおった? 例によってまた塀を乗りこえて来たのか」
 忠相《ただすけ》はこう眼を笑わせて、悠然と髯《ひげ》をしごいている泰軒を見やった。
 泰軒の肩が峰のようにそびえる。
「べつに乗り越えはせん。ちょっとまたいできた、はははは甲賀流忍術《こうがりゅうにんじゅつ》……いかなる囲みもわしにとけんということはないて、いや、これは冗談だが、こうして夜、植えこみの下を這ってきて奉行のおぬしに自ままに見参するなんざあ、俺でなくてはできん芸当であろう」
「うむ。まず貴様ぐらいのものかな。それはいいが」
 と越前守忠相の額に、ちらり[#「ちらり」に傍点]と暗い影が走ると、かれはこころもち声をおとして、「手巧者《てこうしゃ》な辻斬りが出おるというぞ。夜歩きはちと控えたがよかろう」
 すると泰軒、貧乏徳利を平手でピタピタたたきながら、
「噂《うわさ》だけは聞いた。袈裟掛《けさが》け――それも、きまって右肩からひだりのあばらへかけて斜め一文字に斬りさげてあるそうではないか。一夜に十人も殺されたとは驚いたな。もとより腕ききには相違ないが――」
「刀も業物《わざもの》、それは言うまでもあるまい。武士、町人、町娘、なんでもござれで、いや無残な死にざまなそうな。だが、一人の業《わざ》ではないらしい。青山、上野、札《ふだ》の辻《つじ》、品川と一晩のうちに全然方角を異《こと》にして現われおる。そのため、ことのほか警戒がめんどうじゃ」
「うん。いまも来る途中に、そこここの木戸に焚き火をして固めておるのを見た。しかし、おぬしは数人の仕事だというが、おれは、切れ味といい手筋といい、どうも下手人は一人としか思えぬ」
「はて何か心当りでもあるのか」
「ないこともない」
 と泰軒は言葉を切って、胸元から手を差しこんでわき腹をかいていたが、
「いいか。おぬしも考えてみろ……右の肩口から左の乳下へ、といえば、どうじゃな、その刀を握るものは逆手《さかて》でなくてはかなうまい?」
「ひだりききとは当初からの見こみだが、江戸中には左ききも多いでな」
「そこで! 百|尺竿頭《しゃくかんとう》一歩を進めろ!」
 どなるように泰軒がいうと、忠相はにっこり[#「にっこり」に傍点]して大仰《おおぎょう》に膝を打った。
「いや、
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