。いや、奉行の職義から申せば市井《しせい》の瑣事《さじ》すなわち天下の大事である。そこで大作、この婦人の失踪に関連して何ごとかそのほうに思いあたる節《ふし》はないかな?」
「さあ、これと申してべつに……」
 大作は面目なさそうに首をひねった。すると忠相は何かひとくさり低音に謡曲《うたい》を口ずさんでいたが、やがて気がついたようになかば独《ひと》りごちた。
「――あの櫛まきのお藤と申す女、かれはもと品川の遊女で、のち木挽《こびき》町の芝居守田|勘弥《かんや》座の出方《でかた》の妻となったが、まもなく夫と死別し、性来の淫奔大酒《いんぽんたいしゅ》に加うるにばくち[#「ばくち」に傍点]を好み、年中つづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉などというならずものをひきいれて、二階は常賭場《じょうとば》の観を呈しておることはわしの耳にもはいっておる。それのみではない。ゆすり騙《かた》りとあらゆる悪事を重ねて、かれら仲間においても、なんと申すか、ま、大姐御《おおあねご》である。それはそれとして、このお藤は、先年来十里四方お構いに相成りおるはずなのが、目下江戸|府内《ふない》に潜入しておる形跡《けいせき》があると申すではないか」
 いつものことだが、主君越前守の下賤《げせん》に通ずる徹眼《てつがん》、その強記にいまさらのごとくおどろいた大作、恐縮して顔を伏せたまま、
「おそれながら例によって墓参を名とし、ひそかにはいりこみおるものかと存ぜられまする」
「さよう。まずそこらであろう……が、お藤が江戸におるとすれば、このたび喜左衛門店のお艶なる者が誘拐されたこととなんらの関係が全然《まるで》ないとは思えぬ。ま、これは、ほんのわしのかん[#「かん」に傍点]にすぎんが、今までもお藤には婦女をかどわかした罪条《ざいじょう》が数々ある。してみれば、わしのこの勘考も当たらずといえども遠からぬところであろう。な、そち、そう思わぬか」
「お言葉ごもっともにござりまする。なれど、同心をはじめ江戸じゅうの御用の者ども、何を申すにもただいまはあの辻斬りの件に狂奔《きょうほん》しておりまして――」
 大作がこう申しあげて顔色をうかがうと、前面の庭面を見つめてふっ[#「ふっ」に傍点]と片手をあげた大岡越前、事もなげに大作を振り返って、
「評判の袈裟《けさ》掛けの辻斬りか……うむ、もうよいから引き取りなさい。わしも寝所へ入るとしましょう」
 と言ったが立ちあがりもしない。
 府内を席捲《せっけん》しつつある袈裟掛けの闇斬《やみぎ》り!
 それよりも、なにか庭に、自分に見えない物が、主人の瞳にだけうつるらしいのが大作には気になったが、ほとんど命令するような忠相の口調におされて、平伏のままかれは座をさがったのだった。

 用人の伊吹大作が唐紙に呑まれて、やがて跫音の遠ざかるのを待っていた忠相は、灯《あか》りを手に、つとたちあがって縁に出ると、庭のくらがりを眼探《まさぐ》って忍びやかに呼びかけた。
「蒲生《がもう》か――泰軒《たいけん》であろう、そこにいるのは」
と、沓脱《くつぬ》ぎから三つ四つむこうの飛び石の上に、おなじく低い声があった。
「何やら役向きの話らしいから遠慮しておった。じゃまならこのまま帰る」
いい捨てて早くもきびす[#「きびす」に傍点]を返そうとするようすに、忠相はあわてて、
「遠慮は貴様の柄でないぞ、ははははは、なにじゃまなものか。ひさしぶりだ。よく来たな。さ、誰もおらん。まあ、こっちへあがれ」
 満腹の友情にあふれる笑い口から誘われて、ぬっと手燭《てしょく》の光野へ踏みこんできた人影を見ると……つんつるてんのぼろ一枚に一升徳利。
 この夜更けに庭からの訪客はなるほど蒲生泰軒をおいてあり得なかった。
 泥足《どろあし》のまま臆《おく》するところもなく自ら先に立って室内へ通った泰軒|居士《こじ》、いきなり腰をおろしながらひょい[#「ひょい」に傍点]と忠相の書見台をのぞいて、
「なんだ? なにを読みおる? うむ、旱雲賦《かんうんぷ》か。賈誼《かぎ》の詩だな――はるかに白雲の蓬勃《ほうぼつ》たるを望めば……か、あははははは」
 とこの豁達《かったつ》な笑いに忠相もくわわって、ともに語るにたる親交の醍醐味《だいごみ》が、一つにもつれてけむりのように立ちこめる。
 裾をたたいて着座した南町奉行大岡越前守忠相。
 野飼いの奇傑《きけつ》蒲生泰軒は、その面前にどっか[#「どっか」に傍点]と大あぐらを組むと、ぐいと手を伸ばして取った脇息を垢《あか》じみた腋《わき》の下へかいこんで、
「楽《らく》だ」
 光沢《つや》のいい忠相の豊頬《ほうきょう》にほほえみがみなぎる。
「しばらくであったな」
「まったくひさしぶりだ」
 で、またぽつん[#「ぽつん」に傍点]と主客眼を見合って笑っている
前へ 次へ
全190ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング