焦熱慕念《しょうねつぼねん》のほか、何ものもなく、ひとりいて栄三郎さま! と低声《こごえ》に呼べば、いつでもしんみり[#「しんみり」に傍点]と泣けてくるのが、自らおかしいほどだった。
 この純情を察して、きょうこっそりと叔父の多門が、鳥越の栄三郎の実家へ養子の掛け合いに行ったことは、弥生もうすうす感づいているが――そのためか、この高鳴る胸はなんとしたものであろう?
 霜に悩む秋草のように、ほっそりとやつれた弥生が、にわかに暗くなったあたりに驚いて、行燈《あんどん》をとりに立とうとした時、ちょうど眼のまえの空に、天井《てんじょう》から糸を垂れて降りてきた一匹の子蜘蛛《こぐも》を見つけた。弥生が懐紙《かいし》で上部を払うと、蜘蛛は音もなく畳に落ちたが、同時に、あわてて逃げようとする。
 夜の蜘蛛は親と思っても殺せ――それとも昼の蜘蛛だったかしら?
 と弥生が迷っているうちに子蜘蛛は、しすましたり! と懸命に這ってゆく。
 その小さな努力が珍しく弥生をほほえませた。
「そんなに急いでどこへ行くのこれ、お前には心配もなにもなくていいね」
 こう言って弥生が往手《いくて》をふさぐと、蜘蛛はすこしためらったのち、すぐ右へ抜けようとする。弥生が右へ手をやる。蜘蛛は左に出ようとあせる。弥生の手が先をおさえる。思案にくれた蜘蛛は、弥生の手にかこまれて神妙にすくんだ。
「ほほほほ、そう! ね、じっとしておいで、じっと!」
 と弥生がさびしく笑ったとき、玄関に駕籠がおりたらしく出迎えの声がざわめいて、まもなく、女中のささげる雪洞《ぼんぼり》が前の廊下を過ぎるとつづいて土屋多門が、用人をしたがえて通りかかった。
 やみに手を突いて頭をさげた弥生の眼にうつったのは、板廊を踏んでゆく白足袋と袴《はかま》の裾だけだったが、わざと弥生に聞かせる気の多門の大声が、しきりにうしろの用人を振り返っていた。
「世にずいぶんと男は多い。しかるに、一人に心をとられて、他が見えぬとは狭いぞ! もしまたそのひとりが水茶屋ぐるいでもしおったらいかがいたす? な、そうであろう。はははは」
「御意《ぎょい》にございます」用人は何がなにやらわからずに答えている。
 はっ[#「はっ」に傍点]として突っ立った弥生は、じぶんの踵《かかと》の下で、いまの蜘蛛がぶつッ! と音がしてつぶれたのを知らなかった。

「大作」
 と次の間へ声をかけながら、大岡越前《おおおかえちぜん》は、きょう南町奉行所から持ち帰った書類を、雑と書いた桐《きり》の木箱へ押しこんで、煙管《きせる》を通すつもりであろう。反古《ほご》を裂いて観世縒《かんぜよ》りをよりはじめた。
 夕食後、いつものようにこの居間にこもって、見残した諸届け願書の類に眼を通し出してから、まださほど刻《とき》が移ったとも思われないのに、晩秋《ばんしゅう》の夜は早く更《ふ》ける。あけ放した縁のむこうに闇黒《やみ》がわだかまって、ポチャリ! とかすかに池の鯉のはねる音がしていた。
 越前守|忠相《ただすけ》は、返辞がないのでちょっと襖《ふすま》ごしに耳をそばだてたが、用人の伊吹《いぶき》大作は居眠ってでもいるとみえて、しん[#「しん」に傍点]として凝《こ》ったようなしずけさだ。
 ただ遠くの子供部屋で、孫の忠弥《ちゅうや》が乳母に枕でもぶつけているらしいざわめきが、古い屋敷の空気をふるわせて手に取るように聞こえる。
「小坊主め、また寝しなにさわぎおるな」
 という微笑が、下ぶくれの忠相の温顔を満足そうにほころばせた時、バタバタと小さな跫音《あしおと》が廊下を伝わってきて、とんぼ[#「とんぼ」に傍点]のような忠弥の頭が障子のあいだからおじぎをした。
「お祖父《じい》ちゃま、おやすみなちゃい」
 忠相が口をひらく先に、忠弥は逃げるように飛んで帰ったが、その賑《にぎや》かさにはっとして隣室につめている大作が急にごそごそ[#「ごそごそ」に傍点]しだすけはいがした。
「大作、これよ、大作」
「はッ」
 と驚いて大声に答えた伊吹大作、ふすま[#「ふすま」に傍点]を引いてかしこまると、大岡越前守忠相はもうきちん[#「きちん」に傍点]と正座して書台の漢籍《かんせき》に眼をさらしている。
「お呼びでござりますか」
「ああ。わしにかまわずにやすみなさい」忠相の眼じりに優しい小皺《こじわ》がよる。「わしはまだ調べ物もあるし読書もしたい……だがな、大作――」
 と肥った身体が脇息《きょうそく》にもたれると、重みにきしんでぎしと鳴った。
「さきほど役所で見ると、浅草田原町三丁目の家主喜左衛門というのから店子《たなこ》のお艶、さよう、三社まえの掛け茶屋当り矢のお艶とやら申す者の尋《たず》ね書が願い立てになっておったが、些細《ささい》な事件ながら、越前なんとなく気にかかってならぬ
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