、一時京師|鷹司《たかつかさ》殿に雑司《ぞうし》をつとめたこともあるが、磊落不軌《らいらくふき》の性はながく長袖《ちょうしゅう》の宮づかえを許さず、ふたたび山河浪々の途にのぼって、まず生を神州にうけた者の多年の宿望をはたすべく、みちを伊勢路《いせじ》にとって流れついたのがこの山田の町であった。
人に求めるところがあれば、人のためにわれを滅《めっ》する。
世から何ものをか獲《え》んとすれば世俗に没して真我《しんが》をうしなう。
といって、我に即すればわれそのものがじゃまになる。
金も命も女もいらぬ蒲生泰軒――眼中人なく世なくわれなく、まことに淡々として水のごとき一野児であった。
この秀麗な気概《きがい》は、当時まだひらの大岡忠右衛門といって、山田奉行を勤めていた壮年の越前守忠相の胸底に一脈あい通ずるものがあったのであろう。不屈な泰軒が前後に一度、きゃつはなかなか話せると心から感嘆したのは大岡様だけで、人を観《み》るには人を要す。忠相もまた変物《へんぶつ》泰軒《たいけん》の性格学識をふかく敬愛して初対面から兄弟のように、師弟のように陰《いん》に陽《よう》に手をかしあってきた仲だったが、四十にして家を成《な》さず去就《きょしゅう》つねならぬ泰軒の乞食ぶりには忠相もあきれて、ただその端倪《たんげい》すべからざる動静を、よそながら微笑をもって見守るよりほかはなかった。
だから、八代吉宗公に見いだされた忠相が、江戸にでて南町奉行の顕職《けんしょく》についたのちも、泰軒はこうして思い出したように訪ねてきては、膝をつき合わしてむかしをしのび世相を談ずる。が、いつも庭から来て庭から去る泰軒は家中の者の眼にすらふれずに、それはあくまでも忠相のこころのなかの畏友《いゆう》にとどまっていたのだった。
それはそれとして。
この秋の夜半。
いま奉行屋敷の奥座敷に忠相と向かいあっている泰軒は、何ごとか古い記憶がよみがえったらしく、いきなり眼をほそくして忠相の顔をのぞいた。
「おぬし、おつる坊はどうした? 相変わらず便《たよ》りがあるか」
すると老いた忠相が、ちょっと照れたように畳をみつめていたが、
「もう坊でもなかろう。婿《むこ》をとって二、三人子があるそうな。先日、みごとな松茸を一|籠《かご》届けてくれた。貴様にもと思ったが分けようにもいどころが知れぬ――」
「なに、おぬしさえ食うてやればおつる坊も満足じゃろうが、お互いにあのころは若かったなあ」
「うむ、若かった、若かった! おれも若かったが、貴様も若かったぞ、ははははは」
と忘れていた軽い傷痕《きずあと》がうずきでもするように、忠相は寂然《じゃくねん》と腕を組んで苦笑をおさえている。
泰軒もうっとり思い出にふけりながら、徳利をなでてまをまぎらした。
怖いとなっているお奉行さまに過ぎし日を呼び起こさせるおつる坊とは?
話は、ここで再び十年まえの山田にかえる。
神の町に行き着いたよろこびのあまり、無邪心《むじゃしん》小児のごとき泰軒が、お神酒《みき》をすごして大道に不穏な気焔をあげている時、山田奉行手付の小者が通りかかって引き立てようとすると、ちょうど前の脇本陣茶碗屋の店頭から突っかけ下駄の若い娘が声をかけて出て来た。
わき本陣の旅籠《はたご》茶碗屋のおつるは、乙女《おとめ》ごころにただ気の毒と思い、役人の手前、その場は知人のようにつくろって、往来にふんぞり返っていばっている泰軒を店へ招《しょう》じ入れたのだった。
仔細《しさい》ありげな遠国の武士――と見て、洗足《すすぎ》の水もみずからとってやる。
湯をつかわせて、小ざっぱりした着がえをすすめた、が泰軒はすまして古布子《ふるぬのこ》を手に通して、それよりさっそく酒を……というわがままぶり。
一に酒、二に酒、三に酒。
あんな猩々《しょうじょう》を飼っておいて何がおもしろいんだろう? と家中の者が眉をひそめるなかに、おつるは、なんの縁故もない泰軒を先生と呼んで一間《ひとま》をあたえ、かいがいしく寝食の世話を見ていた。
明鏡のようにくもりのないおつるの心眼には、泰軒の大きさが、漠然《ぼんやり》ながらそのままに映ったのかも知れぬ。
また泰軒としても、思いがけないこの小娘のまごころを笑って受けて辞退もしなければ礼一ついうでもなく、まるで自宅へ帰ったような無遠慮のうちにきょうあすと日がたっていったが――。
狭い市《まち》。
脇本陣に、このごろ山伏体《やまぶしてい》のへんな男がとまっているそうだとまもなくぱっとひろまって、ことに手先の口から、その怪しき者が大道で公儀の威信に関する言辞を弄《ろう》していたことが大岡様のお耳にもはいったから、役目のおもて捨ててもおけない。即座に引き抜いて来て、仮牢《かりろう》へぶちこませた
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