い」
斬ったところで始まらぬ……泰軒と栄三郎が顔を見合わせていると突如! 垂れこめる銀幕をさいて現われた左膳の舟が! ドシン! と横ざまにぶつかるが早いか、抜きつれた明刀に雨脚を払って一度に斬りこんで来た。
艪《ろ》を振りあげた泰軒、たちまち四、五人に水礼をほどこす。栄三郎にかわされた土生《はぶ》仙之助も、はずみを食って水音寒く川へのめりこんだ。
沛然《はいぜん》たる豪雨――それに雷鳴さえも。
きらめく稲妻のなかに、悪鬼のごとき左膳の形相《ぎょうそう》をみとめた栄三郎、
「汝《な》れッ! 乾雲か。来いッ!」
とおめいたが、妙なことには相手は立ち向かうようすもなく、落ちた連中を拾いあげると、こっちの舟へ一竿つっぱって倉皇として離れてゆく。
瞬間、蒼い雲光で見ると、騒ぎを聞きつけた番所がお役舟を出したとみえて、雨に濡れる御用提灯の灯が点々と……。
いつのまに乗り移ったか、櫛まきお藤が去りゆく舟に膝を抱いて笑っていた。
「坤竜、また会おうぜ」
雨に消える左膳の捨てぜりふ。
「お艶ッ! どこにいる!」
としみじみ孤独を知った栄三郎が、こう心中に絶叫したとき、泰軒が艪に力を入れて、舟が一ゆれ揺れた。
「いや。先ほどから申すとおり、栄三郎のことなら聞く耳を持ちませぬ――」
主人はぶっきら棒にこう言って、あけ放した縁の障子から戸外へ眼をやった。
金砂のように陽の踊る庭に、苔《こけ》をかぶった石燈籠《いしどうろう》が明るい影を投げて、今まで手入れをしていた鉢植えの菊《きく》が澄明《ちょうみょう》な大気に香《かお》っている。
午下《ひるさが》りの広い家には、海の底のようなもの憂《う》いしずかさが冷たくよどんでいた。
カーン……カーン! ときょうも近所の刀鍛冶で鎚《つち》を振る音がまのびして聞こえる。
長閑《のどか》。
その音を数えるように、主人はしばらく空をみつめていたが、やがてほろ[#「ほろ」に傍点]にがい笑いをうかべると、思い出したようにあとをつづけた。
「なるほど。それは、わたくしに近ごろまで栄三郎とか申す愚弟《ぐてい》がひとりあるにはありましたが、ただいまではあるやむなき事情のために勘当《かんどう》同様になっておりまして、言わばそれがしとは赤の他人。どうぞわたくしの耳に届くところであれ[#「あれ」に傍点]の名をお口へのぼされぬよう当方からお願い
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