《あいう》ちかな――お! 見なさい。来おるぞ、来おるぞ!」
言われて、お米蔵の岸を望むと、左膳の乾雲丸であろう。指揮をくだす光身が暉々《きき》として夜陰に流れ、見るまに石垣を這《は》いおりて、真っ黒にかたまり合った一艘の小舟が、艪音《ろおと》を風に運ばせて矢のように漕いでくる。
「来い、こい! こっちから打ちつけてもよいぞ」と哄笑《こうしょう》した泰軒、上身をのめらせ、反《そ》らせ大きく艪を押し出した。
と、生温い湿気がサッと水面をなでて……ポツリ、と一滴。
「雨だな」
「降って来ました」
言っているうちに、大粒の水がバラバラと舟板を打ったかと思うと、ぞっと襟元が冷え渡って、一時に天地をつなぐ白布《はくふ》の滝《たき》河づらをたたき、飛沫《しぶき》にくもる深夜の雨だ。
お艶は? と見ると、舟に飛びこんだ時から舳先《へさき》につっ伏したきり、女は身じろぎもしないでいる。濡れる! と思った栄三郎が、舟尻《とも》の筵《むしろ》を持って近づきながら、
「驚いたろう? 気分でも悪いか。さ、雨になったからこれをきて、もうしばらくの辛抱《しんぼう》だ……」
と抱き起こそうとすると、
「ほほほほ! なんてまあおやさしい。すみませんねえ、ほんとに」
という歯切れのいい声とともに栄三郎の手を払って顔をあげたのを見れば!
思いきや――お艶ではない!
「やッ! だ、誰だお前は?」
「まあ! 怖《こわ》い顔! 誰でもいいじゃないの。ただ当り矢のお艶さんでなくてお気の毒さま」
櫛まきお藤は白い顔を雨に預けて、鉄火《てっか》に笑った。
「でも、御心配にはおよびますまいよ、今ごろはお艶さんは、本所の殿様の手にしっくり[#「しっくり」に傍点]抱かれているでしょうからねえ。ほほほ、身代りに舟へとびこんで、ここまで出てきたのはいいけれど、あたしゃ馬鹿を見ちゃった。この雨さ。とんだ濡れ場《ば》じゃあ洒落《しゃれ》にもなりゃしない……ちょいと船頭さん、急いでおくれな」
あッ! お艶はさらわれたのだ――栄三郎はよろめく足を踏みこらえて、声も出ない。
立て膝のお藤、舟べりに頬杖《ほおづえ》ついて、
「ねえ、ぼんやり立ってないで、どうするのさ! あたしが憎けりゃ突くなり斬るなり勝手におしよ――それより、どなたか火打ちを? でも、この降雨《ふり》じゃあ駄目か。ちッ! 煙草《たばこ》一つのめやしな
前へ
次へ
全379ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング