分のものか、そこらのところを御苦労だが洗ってきてもらえまいか」
たしなめるようににっと歯をみせたお藤は、それでももうおもしろそうに大きくうなずいて、鐘撞堂《かねつきどう》からお水屋へと影づたいに粋《いき》な姿を消して行った。
振袖銀杏の下に待っているつづみ[#「つづみ」に傍点]の与吉へ。
そして、しらせを受け取った与吉は、ただちに本所法恩寺橋へ宙を飛んで、いま浅草三社まえのかけ茶屋当り矢に坤竜丸が来ていると丹下左膳へ注進する手はず。
ひとりあとに残った源十郎は、しばらく石になったように動かなかった。
やがて。
「鳥越の若様という侍が、この当り矢へ来ておる。すると、きゃつとお艶と――だが待てよ、おれには百の坤竜よりも生きたお艶のほうがよっぽどありがたいわい。こりゃあ一つ考えものだぞ」
とひねった首をしゃんとなおすが早いか、思いついたことがあるらしく、源十郎ぐっと豪刀の柄《つか》を突き出して目釘を舐《な》めた。
雪駄をぬいでふところへ呑む。ツウ……とぬすみ足、寄りそったのが当り矢の前だ。
と思うと、突如!
ザザザアッ! とうしろに葦簾《よしず》をかっさばいた白光に、早くも身を低めた栄三郎が腰掛けを蹴返したとたん、ものをいわずに伸びきった源十郎の狂刀が、ぞッと氷気を呼んで栄三郎の頭上に舞った。
去水流居合《きょすいりゅういあい》、鶺鴒剣《せきれいけん》の極意《ごくい》。
が、この時すでに、あやうくとびずさった栄三郎の手には、武蔵太郎安国が延べかがみのように光っていた。
源十郎、追い撃ちをひかえて上段にとる。
栄三郎は神変夢想の平青眼だ。
せまい茶屋のなか。外光をせおった源十郎は、前からはただ黒い影としか見えない。
「何奴《なにやつ》! 狂者か。白昼この狼藉――うらみをうける覚えはないぞッ! 引けッ」
上眼づかいに栄三郎が叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》する。源十郎は笑った。
「できる。が、呼吸がととのわん。道場の剣法、人を斬ったことはあるまいな」
「エイッ! なに奴かッ! 名を名乗れ、名を」
「丹下左膳……といえば聞いたことがあろう」
「なな何ッ? た、丹下、あの丹下左膳――?」
栄三郎が思わず体を崩してすかして見たとき、スウッとしずかに源十郎の刀が鞘へすべりこんで、
「まず――まず、人きり庖丁《ぼうちょう》をしまわれ
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