と前掛けをはずしたお艶が、袖を胸に重ねて走り出したところで、とんとぶつかりそうになった女づれの侍がある。源十郎だ。
「あれ! ごめん下さいまし」
そのまま内股《うちまた》に駈けてゆくお艶のうしろ姿に、源十郎の眼がじいっと焼きついたと見ると、
「殿様、あれが浅草名代の当り矢のお艶でございますよ――まあきれいですことねえ!」
そそのかすようにお藤がささやいた。
褄《つま》を乱して急ぎ去るお艶の影に、みだらな笑をたたえた源十郎は「お藤」とふり向いて、
「美《い》い女だなあ! 当り矢のお艶という? ふうむ、そうか」
お藤は、いたずららしい眼で源十郎を叱った。
「あれさ、殿さまいけませんよ。またそろそろ浮気の虫が……」
苦笑した源十郎、五十両を持った若侍をつけてきたのは、かれの腰にある陣太刀づくりの脇差――坤竜丸にひかれてのことである。いまは茶屋女の裾さばきに見惚れている場合でないと、そっとお藤を押しのけて前の茶屋を見やると――。
葦簾のかげに緋毛氈《ひもうせん》敷いた腰かけが並んで、茶碗に土瓶《どびん》、小暗い隅には磨きあげた薬罐《やかん》が光り、菓子の塗り箱が二つ三つそこらに出ている――ありきたりの水茶屋のしつらえ。
むこう向きにかけた侍ひとり。その羽織の下からのぞいている平巻きの鞘を見つけると、源十郎は忍びになって、常夜燈のかげへお藤をさし招いた。
「いる」
「いますか……では、与《よ》の公《こう》が待っていますから、わたしはすぐ引っ返して――」
と手早く片裾からげるお藤へ、源十郎はにやりと笑いかけて、
「左膳はこの若造を死身《しにみ》になってさがしているのだ。わけはいずれあとでわかるが、左膳の大事であってみれば、おれも、いや、お前こそは――はっははは、まんざら力瘤《ちからこぶ》のはいらぬというわけはあるまいな。その気でぬからず頼む。お前の左膳へのこころもちはおれから伝えてもあるし、今後は決して悪くははからわんつもりだ」
左膳……といわれて、櫛まきお藤ともあろうものがぽっとさくら色に染まって、凄いまでに沈んだ口調だ。
「いまのお言葉――反古《ほご》になさるとききませんよ」
陽《ひ》かげのせいか、源十郎はうそ[#「うそ」に傍点]寒く感じた。
「大丈夫だ。早く行って与吉を走らせろ……あ! それからな、さっきのお艶、あれの店《たな》はどこか、またいかなる身
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