しもちょっかいを出して左膳様にお艶の居場所を教えたんだが、ところがお前さん、ふたりがさっそくしらせあってすぐとめいめいの女のところへ駈け出したらしいんだが、どっちもおあいにくで、おまけに恥をかくやら命があぶなくなるやら、両方ともほうほうのていで逃げ帰ってネ、あやうく果たしあいになるところで、たがいに話の仕入れ先がわかったもんだから、それで急にこっちへ火さきが向いて来て、なんでも鈴川の殿様と左膳さまは、姐御とあッしをみつけしだい殺《ば》らしてしまうと、それはそれはたいした意気込みですぜ」
与吉のはなしの中途で立ちあがって、くらいなかに帯を締めなおしていた櫛まきのお藤が、このとき低い声で、うめくようにいったのだった。
「与の公、したくをおし! サ、長いわらじをはこうよ。だが、その前に……」
あとは耳打ち――与吉はただ、眼を見はって、つづけざまにうなずいていた。
外桜田《そとさくらだ》……南町奉行大岡越前守忠相の役宅。
まだ宵のくちだった。
奥の一間に、夕食ののちのひと刻を、腰元のささげてくる茶に咽喉をうるおしつつ、何思うともなく、庭前のうす暗闇に散りかかる牡丹《ぼたん》の花を眺めている忠相を、うら木戸の方に当たってわき起こったあわただしいののしり声が、ちょうど静かな水面に一つの石の投ぜられたように、突如として驚かしたのだった。
何ごとであろう? また、黒犬めが悪戯《わるさ》でもしおったのではないか――。
と、忠相が聞き耳を立てたとき、用人の伊吹大作が、ことごとく恐縮して敷居ぎわにかしこまった。
「なんじゃナ、大作」
忠相は、にこやかな顔を向けた。
「は。お耳に入りまして恐れ入りまする。実はソノ、ただいま、なんでございます、気のふれた女がひとりお裏門へさしかかりまして……」
「ほほう! 気がふれた女か?」
「御意《ぎょい》にござります。しかもその気のふれようが大《だい》それておりまして……」
「よい、よい! 大切に介抱してつかわし、さっそくに身もとを探すがよかろう」
やさしい目が細く糸を引いて、その見知らぬ女に対する忠相の思いやりがしのばれる。
めっそうな! というふうに、大作はいそがしく言葉をつづけた。
「ところが――でござりまする。その狂いようたるや、とうていなみたいていではございませんので」
「フウム! どうなみたいていではないかナ? そちのも
前へ
次へ
全379ページ中358ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング