大久保藤次郎家用人白木重兵衛が、その日、用があって蔵宿両口屋へ立ちよると、つい今しがた、主人の弟の栄三郎が藤次郎の実印を持ってきて、こういうはなしで五十両借りて行ったという。
判をちょろまかして大金をかたるとはいかに若殿様でもすておけないとあって、白髪頭をふりたてた重兵衛、飛びだして小手をかざすと――。
秋らしく遠見のきく白い町すじ。
三々五々人の往来する蔵前の通りを、はるか駒形《こまがた》から雷門《かみなりもん》をさしていそぐ栄三郎の姿が、豆のようにぽっちりと見える。与吉を伝送《でんそう》の中つぎに残して、あとをつけてゆく源十郎とお藤の影は、もとよりただの通行人としか重兵衛の眼にはうつらなかった。
「うちうちなら宜《え》えが、札差しを痛めつけられるようでは、栄三郎さまの行く末が思われる。ぶるるッ! これはどうあっても殿様へ申し上げねばならぬ……殿様へ申しあげねばならぬ」
と正直|一途《いちず》に融通のきかない重兵衛は、それからすぐに鳥越の屋敷へ取って返す。そんなことは知らないが、なんでこの若侍も鳥越へ?
と源十郎が前方の栄三郎をみつめているうち、花川戸《はなかわど》のほうへ下らずに、栄三郎はまっすぐに仁王門から観音《かんのん》の境内へはいりこむ。
はてな、道がちがうがどこへ行くのだろう? 源十郎はお藤に眼くばせして歩を早めた。
栄三郎にしてみれば。
あの根津の曙の里の故小野塚鉄斎先生の娘|弥生《やよい》に思われて、嫌ってはすまぬと知りながら、ああしてみずから敗をとって弥生を泣かした。のみならず、それから事件が起こって老師は不慮の刃にたおれ、夜泣きの刀は二つに別れて坤竜《こんりゅう》はいま自分の腰にある。栄三郎とてもいたずらに弥生をしりぞけ、師の望みにそむくものではない。あの夜、泣く泣く麹町《こうじまち》の親戚《しんせき》土屋多門方へ引き取られて行った弥生に、かれはかたい使命を誓ったのだった。
相手は乾雲丸の丹下左膳。
がしかし、弥生の恋をふみにじって、事ここにいたったのも、栄三郎としては、ここに三社前の水茶屋当り矢のお艶というものがあればこそであった。
恋し恋されるこころのあがきだけは、人の世のつねの手綱では御《ぎょ》されない。
一眼惚れとでもいうのか、はじめて見た時からずっとひきこんだ恋慕風《れんぼかぜ》を栄三郎はどうすることもできなか
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