、おなじく小手《こて》をかざして栄三郎を望見していた。
「どれ、日の高いうちにひとまわりと出かけましょうか。はい、大きに御馳走さま――姐《ねえ》さん、ここへお茶代をおきますよ。どっこいしょッ! と」
「どうもありがとうございます。おしずかにいらっしゃいまし」
吉原を顧客《とくい》にしている煙草売りが、桐の積み箱をしょって腰をあげると、お艶《つや》はあとを追うようにそとへ出た。
人待ち顔に仁王門のほうへ眼を凝《こ》らして、
「もう若殿様のお見えになるころだけれど、どうなすったんだろうね。あんなごむりをお願いして、もしや不首尾で……」
と口の中でつぶやいたが、それらしい影も見えないので、またしょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]と葦簾《よしず》のかげへはいった。
階溜まりに鳩がおりているきり、参詣の人もない。
浅草三社前。
ずらりと並んでいる掛け茶屋の一つ、当り矢という店である。
紺の香もあたらしいかすり[#「かすり」に傍点]の前かけに赤い襷《たすき》――お艶が水茶屋姿の自分をいとしいと思ってからまだ日も浅いけれど、諏訪栄三郎というもののあるきょうこのごろでは、それを唯一つの頼りに、こうして一|服《ぷく》一文の往きずりの客にも世辞のひとつも言う気になっているのだった。
ちいん[#「ちいん」に傍点]と薬罐《やかん》にたぎる湯の音。
ちょっと釜の下をなおしてから、手を帯へさしこんだお艶は、白い頤《おとがい》を深ぶかと襟へおとしてわれ知らず、物思いに沈む。
隣の設楽《しがらき》の店で、どっとわいた笑いも耳にはいらないようす。鬢《びん》の毛が悩ましくほつれかかって、なになにえがくという浮世絵の風情《ふぜい》そのままに――。
このお艶は。
夜泣きの刀を手に入れるために剣鬼丹下左膳を江戸おもてへ潜入させた奥州中村の領主|相馬大膳亮《そうまだいぜんのすけ》につかえ、お賄頭《まかないがしら》をつとめていた実直の士に、和田宗右衛門《わだそうえもん》という人があった。
水清ければ魚住まずというたとえのとおり、同役の横領にまきぞえを食って永のお暇《いとま》となった宗右衛門。今さら二君にまみえて他家の新参になるものもあるまいと、それから江戸に立ちいで気易《きやす》な浪人の境涯。浅草三間町の鍛冶屋富五郎、かじ富という、これがいささかの知人でいろいろと親切に世話をしてくれ
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