がない。殊には富五郎のいうとおり、もうお艶栄三郎がキッパリ別れているならなおのこと、いまおさよの奉公先本所法恩寺前で五百石のお旗本鈴川源十郎様が、きつう娘に御執心《ごしゅうしん》なされて、一度はお屋敷に閉じこめてわがものにしようとしたが、栄三郎ときれいに手を切って娘を生涯の妾にくれるならば、内々のところは奥様にして、そうならばこのさよも五百石の女隠居、眼をつぶるまで世話をしてやろうといってくださる。栄三郎にはいささか不実だが、これもなんともいたし方がない。しかもすでに離れているものなら、さほど生木を割くというわけでもなし、世の中はまず自分の楽をはかるのが当世かと思う。ついては、いかになんでもわたしから栄三郎へは掛合いがしにくいから、富五郎さんおいそがしいところをお頼み申して心ないが、どうだろう、ここに殿様からいただいた小判が五十両――これだけあれば、いつぞやお前さんに返金するために栄三郎に立て替えてもらった金の埋めもついて、ほかにうるさいことをいわれるおぼえはないはず。その五十金がこのとおりソックリ財布にはいっている。これを手切れにして、一つ出向いて栄三郎を説き伏せて来てはくれまいか……。
 富五郎は沈黙。
 白っぽい場末の静寂が、おさえつけるように真昼の街をこめている。
 弟子の吉公が、またお向うの質屋の小僧と喧嘩をはじめたらしくうわずった声がおもての往来に流れていたが台所にひそむおしんは、何も耳にはいらないふうで、ひたすら室内の富五郎の返答を待った――うなだれて固唾《かたず》をのむおさよ婆さんとともに。
 いわば恋がたきである――源十郎と鍛冶富。
 その鈴川の殿様のために、手切れの使者に立って金を渡し、はなしをまとめてくれとおさよ婆さんに頼まれたときに、鍛冶屋の富五郎、味もそっけもなくポンとはねつける。
 と、思いのほか。
 逆に、グッと一つそり返りざま、胸のあたりを大きくたたいて見得をきった。
「ようがす!」
 と容易《たやす》く受け合う。
 立ち聞くおしんは、案に相違して、お艶を源十郎にやろうという良人《おっと》のことばに燃えかかっていた嫉妬のほむらもちょっとしずまって、いささか安心したらしいようすだが思ったよりこともなく承知《うけあ》ってくれたのに、かえってさよのほうがびっくりし、
「え? それではアノ――?」
 せきこんでききかえすと、ますます鷹揚《おう
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