様おやしきを立ち出たのだった。
一歩、屋根の下を離れると、忘れていた春の最中である。
もう早い夏のにおいが町の角々にからんで、祭りの日のような、何がなしに楽しい心のときめきがふと老いたおさよの胸をかすめる。
幼いころの淡い哀愁であろうかその記憶が、陽光のちまたを急ぎゆく老女のおぼつかない感懐をすらそそらずにはおかないのだった。
これも、春のなすすさび[#「すさび」に傍点]であろう。
正直なかわりに単純そのもののようなおさよは、この、人血に染む金で娘のみさおを渡し、それによって展《ひら》かれるであろうはかない最後の安逸《あんいつ》を、早くもぼんやりと脳裡にえがいて、ひとりでに足の運びもはかどるのであった。
本所を出て、あれから浅草へ歩を向ける。
まばらな人家のあいだに空き地がひろがって、うす紅の海棠《かいどう》は醒めやらぬ暁夢《ぎょうむ》を蔵して真昼の影をむらさきに織りなし、その下のたんぽぽの花は、あるいはほうけあるは永日ののどかさを友禅《ゆうぜん》のごと点々といろどっているけしき……いつの間にやら、春はどこにでも来ていた。
南の風。
そこにもここにも、さくら、さくら、さくら――。
気がついてみると、今日は吉野《よしの》の花会式《はなえしき》である。
なつかしい心もち。
そういったものがひたひたとおさよの身内に押し寄せて来て、彼女は、しばし呆然と道の端に立ちどまっていた。
どこへ行こう?……と考える。
栄三郎さんの瓦町の家は、じぶんも一度、刀を掘り出し持って行ったことがあるから知っているが、のっけ[#「のっけ」に傍点]からこの離縁ばなしをあそこへ持ちこんでゆくのはおもしろくない。
第一、いまお艶はどこで何をしているのか、それはわからないにしても、瓦町にいないことだけは人の口に聞いて確実なのだから……。
はて! 金と引き換えに証文まで書き、こうして殿様に受け合って出て来たのはいいが、いったいまずどこへ行って、誰に相談したものであろう?
思案のうちに、ハタと何かを思いついたらしいおさよ、ひとり頻《しき》りにうなずきながらまたあるきだした。
まばゆい日光が、浮世の辛苦にやつれた老婆の肩に、細く痛々しくおどっている。
駒が勇めば花が散る……。
これは駒ではないが、細工場でおもい槌《つち》をふるって、真赤に焼けた金を錬《なら》すごとに、そ
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