はいっても。
 どうせ女子供を相手に街上に絵をひさぐ商売である。
 それこそしんとんとろりと油壺から抜け出て来たような容貌自慢の優男《やさおとこ》が、風流紅彩色姿絵《ふうりゅうべにいろすがたえ》そのままの衣裳を凝《こ》らして、ぞろりぞろりと町を練り歩いたもので、決して五尺の男子が、自らいさぎよしとする職業ではなかった。
 世は泰平に倦《う》み、人は安逸に眠って、さてこそこんな男おんなみたいな商売もあらわれたわけだろうが、この風流べに絵売り、そのころボツボツ出はじめた当座で、だいぶんそこここの往来で見かけるのだった……。
 雨あがりの朝。
 外桜田の大岡様お屋敷をあとにした泰軒とお艶に、うららかすぎて、春にしては暑いほどの陽のひかりがカッと照りつけ、道路から、建物から、草木から立ち昇る水蒸気が、うす靄《もや》のようによどむ町々を罩《こ》めていた。
 お江戸の空は紺碧《こんぺき》だった。
 一日の生活にとりかかる巷の雑音が混然と揺れ昇って、河岸帰りの車が威勢よく飛んでゆく。一月寺の普化僧《ふけそう》がぬかるみをまたいで来ると、槍をかついだ奴《やっこ》がむこうを横ぎる。町家では丁稚《でっち》が土間を掃《は》いていたり、娘が井戸水を汲んでいるのが見えたり、はたきの音、味噌汁の香――。
 親しい心のわく朝の街である。
 途中何やかやと話し合いながら呉服橋《ごふくばし》から蔵屋敷《くらやしき》を通って日本橋へ出た泰軒とお艶。
 こっち側はお高札、むこうは青物市場で、お城と富士山の見える日本橋。
 その橋づめまで来ると、泰軒はやにわに、
「あんたのいるところはやぐら下のまつ川といったな。ま、いずれそのうちには他《よそ》ながら栄三郎どのに会う機《おり》もあるであろうから、気を大きく持って……お! それから、何よりも身体を大切に、あんたひとりの身体ではないで、むりをせんようにナ」
 と、じぶんの言うことだけいったかと思うと飄々然《ひょうひょうぜん》、一升徳利とともに橋を渡って通行人のあいだに消えてしまった。
 まあ! いつもながらなんて気の早いお方!――ひとりになったお艶は、いささかあきれ気味にしばし後を見送っていたが、これから帰途に銀町へ寄って悔みを述べていこうと、急に足を早めて茅場町《かやばちょう》からこんにゃく島、一の橋をわたって伊兵衛の家へといそいで来た。
 いまは、侠《いき
前へ 次へ
全379ページ中283ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング