艶が袂に顔を隠して、身体を曲げていると、泰軒、筋くれ立った指を折って、
「一と月、ふた月、三月、ヨウ、イイ、ムウ……」
「あれッ! 先生、嫌でございますッ!」
真赤になったお艶が叫ぶようにいった時、忠相のそばを離れてとんで来た黒犬が、何か感ちがいして、やにわに足もとで吠えたてたのだった。
この享保《きょうほう》の初年に。
筆をもって紅く彩色した人物画を売りはじめ、これをべに絵といって世に行われ、また江戸絵と呼ばれるほどに江戸の名産となって広く京阪その他諸国にわたり、べに絵売りとて街上を売りあるくものもすくなくなかった。
同時に、金泥《きんでい》を置き墨のうえに膠《にかわ》を塗って光沢を出したものを漆絵《うるしえ》と呼び、べに絵とともに愛玩されたが、明和二年にいたって、江戸の版木師《はんぎし》金六という者、唐《から》の色刷りを模して版木に見当をつけることを工夫し、はじめて四度刷り五度ずりの彩色版画を作ったところが、時人こぞって賞讃し、その美なること錦に似ているというのでここに錦絵の名を負わすようになった――本朝版画のすすんだ道とにしき絵の濫觴《らんしょう》だが、これは後のこと。
享保のころ、べに絵の筆をとって一流を樹てていたのが名工|奥村政信《おくむらまさのぶ》。
で、いま。
その当時江戸の名物べに絵売りなるものの風俗をみるに……。
あたまは野郎《やろう》頭。
京町とか、しののめとか書いた提灯散らしの模様をいっぱいに染め出した留袖《とめそで》。
それに、浪に千鳥か何かの派手な小袖。
風流|紅彩色《べにいろ》姿絵と横に大書した木箱を背負い、箱のうしろに商売物の絵をつるし、手に持った棒にもべに絵がたくさんさがっている。
そして、その箱の上に、天水桶から格子戸、庇《ひさし》まで備わり、三浦と染め出した暖簾《のれん》、横手の壁には吉原と書いた青楼《おちゃや》の雛形《ひながた》に載せてかついでいようという、いかにも女之助と呼びたい、みずからそのべに絵中の一人物――。
後年はおもに女形の卵子や、芳町《よしちょう》辺で妙な稼業をしたものの一手の商売ときまり、またその時分すでにそうした気風も幾分かきざしていたけれど、それでも享保時代にはまだ、副業の男娼よりは、べに絵売りはただ新しく世に出て珍しい彩色絵《いろえ》を売り歩く単なる絵の行商人にすぎなかった。
と
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