銀杏の下を離れようとするうしろから、突如、錆びたわらい声が源十郎の耳をついた。
「はっはっはっは、天知る地知る人知る――悪いことはできんな」
ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としてふり返ったが、人影はない。
雨のような陽の光とともに、扇形の葉が二ひら三ひら散っているばかり――。
銀杏が口をきいたとしか思われぬ。
気の迷い!
と自ら叱って、源十郎が再びゆきかけようとしたとき、またしても近くでクックックッという忍び笑いの声。
思わず柄に手をかけた源十郎、銀杏の幹へはねかえって身構えると……。
正覚寺の生け垣にそって旱魃《ひでり》つづきで水の乾いた溝がある。ちょうど振袖銀杏の真下だから、おち敷いた金色の葉が吹き寄せられて、みぞ一ぱいに黄金の小川のようにたまっているのだが、その落ち葉の一ところがむくむく[#「むくむく」に傍点]と盛り上がったかと思うとがさがさと溝のなかで起き上がったものがある。
犬? と思ったのは瞬間で、見すえた源十郎の瞳にうつったのは、一升徳利をまくらにしたなんとも得体《えたい》の知れないひとりの人間だった。
「き、貴様ッ! なんだ貴様は?」
おどろきの声が、さしのぞく源十郎の口を突っぱしる。
ところが相手は、答えるまえに、落ち葉の褥《しとね》にゆっくりと胡坐《あぐら》を組んで、きっ[#「きっ」に傍点]と源十郎を見返した。
熟柿《じゅくし》の香がぷんと鼻をつく。
乞食にしても汚なすぎる風体。
だが、肩になでる総髪、酒やけのした広い額、名工ののみ[#「のみ」に傍点]を思わせる線のゆたかな頬。しかも、きれながの眼には笑いと威がこもって、分厚な胸から腕へ、小山のような肉《しし》おきが鍛えのあとを見せている。
年齢は四十にはだいぶまがあろう。着ているものは、汗によごれ、わかめのようにぼろの下がった松坂木綿の素袷《すあわせ》だが、豪快の風《ふう》あたりをはらって、とうてい凡庸《ぼんよう》の相ではない。
あっけにとられた源十郎が、二の句もなく眺めている前で、男はのそり[#「のそり」に傍点]と溝を出て来た。
ぱっぱっと身体の落ち葉は払ったが、あたまに二、三枚銀杏の葉をくッつけて、徳利を片手に、微風に胸毛をそよがせている立ち姿。せいが高く、岩のような恰幅《かっぷく》である。
偉丈夫――それに、戦国の野武士のおもかげがあった。
すっかり気を
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