のことだし、門番も、奇異の感とともに面倒に思って、雨中ではあり、さっさとひっこんでしまいそうにするので、
「アノ、ちょっと殿様の御存じの者でございますが……」
お艶が言いかけるが、
「ナニ? 御前がお前|見識《みし》りごしだというのか」
「いえ。わたくしではございません。お出入りの大工|伊兵衛《いへえ》と申すものが八丁堀お役人ていの追剥《おいは》ぎに斬り殺されまして――」
「ナ、なに? あの伊兵衛が……?」
とびっくりした御番士、伊兵衛ならば自分もよく知っているから、まだ夜中ではあるが、取り急ぎその旨をおつぎの間にひかえた御用人伊吹大作を通して申しあげると、
オ、あの老人の大工が? それは! とこれも驚いた大作、かみにはおやすみではあろうが、ひとまずごようすをうかがって、もしお眼覚めならば御聴聞《ごちょうもん》に達しようと、境の襖をそろそろと開けてみてそしてギョッ! としたのだった。
御就寝《おやすみ》とのみ思っていた越前守忠相、きちんと端座して蒔絵《まきえ》の火鉢に手をかざし、しかもそれをへだてて、ひとりの長髪異風な男が傲然《ごうぜん》と大あぐらをかいているではないか。
仰天した伊吹大作、宿直《とのい》の際は万一の用に、常に身近に引きつけておく手槍を取るより早く、
「おのれッ! 無礼者ッ!」
閃光、男の胸部を狙ってツツウ! と走った。
風流《ふうりゅう》べに絵《え》売《う》り
突如くり出された槍さきを、グッと胸もとに押し流した奇傑泰軒。
「わッはっはっは、夜中忍んで参ること数十回、いままで誰にもみつからなかったが、今夜こそは見事に現場をおさえられたぞ。アッハッハ」
と、同時に、あっけにとられた大作に、忠相の声が正面からぶつかっていた。
「控えろッ大作! これなるは余の親友、名は言われんが大奥|隠密《おんみつ》の要役を承る大切な御仁《ごじん》じゃ! やにわに真槍をもって突きかけなんとする? 引けい!」
むかし伊勢の山田でも、忠相は泰軒を千代田の密偵に仕立てて手付きの者のまえをつくろったことがあるが、今また、大奥隠密! という忠相とっさの機知に、徳川家を快しとしない武田残党の流士蒲生泰軒、燭台の灯かげにいささかくすぐったそうな顔をなでていると、何も知らない大作は、思わぬ失策にすっかり恐縮し、カラリと槍を捨ててその場に平伏した。
「いえ、ソノ、
前へ
次へ
全379ページ中274ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング