だ! 大岡さま! 大岡さま!……まぎれもねえ大岡様だッ! ヒャアッ婆さん! お前まあ大《たい》したお方と口をきいたもんだなあ!」
「えッ! あ、あれが大岡様! お爺さん、お前さんまた担《かつ》ぐんじゃあないだろうねえ」
「ばかッ! こんな冗談が言えるもんか。はばかりながら公事御用に明るくて江戸でも名代《なだい》の口きき大家だ。南町のお奉行所は手前の家よりも心得ているんだが、実《じつ》あ、たった一度、それ、極道《ごくどう》長屋の鉄の野郎《やろう》がお手あてになって、おれが関係に付き添って行ったことがあるだろう? あの時、お白洲《しらす》でお調べをなすったお顔がまだ眼の底にこびりついてらあ。そうよ。今のが大岡さまだ! 南町のお奉行|大岡越前守忠相《おおおかえちぜんのかみただすけ》様!」
「知らぬこととはいいながら」婆さんは浄瑠璃《じょうるり》もどきだ。
「ああありがたい。いっそもっとおそばによって、よくお顔を拝んどきゃよかったよ。ねえ、お爺さん、この話は孫子の代まで語《かた》り草《ぐさ》だねえ」
「そうとも、そうとも! うしろ影なりと拝みなおすこった」
「こちとら、こんな時でもなけりゃあお奉行さまなんか顔も見られねえ。よし! 長屋じゅうへふれてみんなを呼んでこよう」
鍛冶富が駈け出そうとするのを、喜左衛門がとめた。
「富さん! もったいねえことをするもんじゃねえ。おしのびでいらっしゃるんだ――」
土下座《どげざ》をせんばかりに喜左衛門夫婦と鍛冶屋富五郎がガヤガヤしているのを、仔細《しさい》を知らない通行人がふしぎな顔で見て通る。
そのうちに。
うららかな陽を全身に浴びた大岡忠相。きょうは文字どおりの忍びだから、手付きの用人|伊吹大作《いぶきだいさく》ただ一人を召しつれて、さっさと角《かど》をまがってしまった。
どこへ? というあてもない。
いわばぶらぶら歩きである。
民情に通じ、下賤《げせん》を究《きわ》めることをもって奉行職の一必要事と観《かん》じている越前守は、お役の暇を見てよくこうして江戸の巷を漫然《まんぜん》と散策することを心がけてもいたし、また好《この》んでもいたのだ。この日も冬には珍しい折りからの晴天を幸い、年のくれの景況でも見ようとぶらりと屋敷を出たものであろう。思うこともなさそうに越前守忠相、人を避けてあるいてゆく。あとに続く伊吹大作の気づ
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