ぬ嫉妬の雲がむらむらとこみあげてきて、急に眼のまえが暗くなるのを覚えた。
しかし、弥生は無言だった。
この家にはいって以来、彼女はお艶の顔に眼を離さずに、低頭《じぎ》はおろか口ひとつきかないですわっているのだ。
ものをいうのもけがらわしい!
と強く自らを叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》している弥生は、それでも、これがあの栄三郎のおすまいかと思うと、今にも眼がしらが熱くなってきそうで、そこらにある乏《とぼ》しい世帯道具の一つ一つまでが、まるで久しく取り出さずに忘れている自分の物のように懐しまれてならなかった。
けれど、面前《まえ》にいるこの女?
栄三郎様の妻と自身で名乗っている。
ああ……これが話に聞いた当り矢のお艶か。でも、妻だなどとはとんでもない!
いいえ! いいえ! 妻で――妻であろうはずはありません! 決してありません!
と胸に絶叫して、凝然《ぎょうぜん》とお艶を見つめた弥生は、ふとなんのつもりで自分はこの雨のなかをこんなところへ乗りこんできたのだろうか? とその動機がわからなくなると同時に、じぶんの立場がこの上なくみじめなものに見えてきて、猛《たけ》りたった心が急に折れるのを感じたかと思うと、はやぽうっと眼界をくもらす涙とともに噛《か》みしめた歯の間からゆえ知らぬ泣き声が洩れて出た。
文《ふみ》つぶてにひかれて土屋多門の屋敷を出た弥生は、待っていた櫛まきお藤につれられて、雨にぬかるむ路をここまで来たのである。
「まあまあ! なんておいたわしい。ほんとにお察し申しますよ」
こう言ってお藤は、なんのゆかりもないものだが、あまりに報われない弥生の悲恋をわがことのように思いなして、頼まれもしないのにお艶、栄三郎の隠れ家へ案内をする気になったのだと、弁解《いいわけ》のように途々《みちみち》話した。そして、
「じつはねえお嬢さま、あたくしもちょうどあなた様と同じように、いくら思っても情《つれ》なくされる殿御《とのご》がありますのさ」
と、左膳を思いうかべながら、この娘! この娘! この娘なんだ! どうしてくれようとちらと横眼で見ると恋と妬心《としん》に先を急ぐ弥生は、同伴《つれ》のお藤が何者であろうといっさい頓着《とんじゃく》ないもののように、折りからの吹き降りにほつれ毛を濡らしきって口を結んでいたのだった。
宵から降り
前へ
次へ
全379ページ中111ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング