! 喚発《かんぱつ》した悲叫は、左膳か、それとも栄三郎か?

 本所鈴川の化物屋敷が刀影下に没して、冷雨のなかを白刃|相搏《あいう》つ血戦の場と化しさったころ。
 ここ瓦町の露地《ろじ》の奥、諏訪栄三郎の留守宅にも、それにおとらない、凄じいひとつの争闘が開始されていた。
 男子のたたかいは剣と腕《かいな》。
 だが、女子のあらそいに用いられる武器は、ゆがんだ微笑と光る涙と、針を包んだことば……そうして、火の河のようにその底を流れる二つの激しい感情とであった。
 たがいの呪い、憎みあう二匹の白蛇。
 それが今、茶の間……といってもその一室きりない栄三郎の侘住居《わびずまい》に、欠け摺鉢《すりばち》に灰を入れた火鉢をへだてて向かいあっているのだ。
 お艶《つや》と弥生《やよい》。
 だまったまま眼を見合って、さきにその眼を伏せたほうが負けに決まっているかのように双方ゆずろうともしない――視線合戦《しせんがっせん》。
 が、さすがにお艶は、水茶屋をあつかってきただけに弥生よりは世《よ》慣れていた。お艶は、さっきから何度もしているように、丁寧《ていねい》に頭をさげると、ほどよく微笑をほころばせながら、それでも充分の棘《とげ》を含んで同じ言葉をくり返した。「あの、それでは、あなたさまが弥生様でいらっしゃいますか。おはつにお目にかかります。お噂《うわさ》はしじゅう良人《たく》から伺っておりますが……わたくしは栄三郎の妻のお艶《つや》と申すふつつか者でございます。どうぞよろしく……ほほほほ、主人はちょっとただいまお風呂《ふろ》へ参りまして、でも、もうお湯をおとした時分でございますから、おッつけ帰るだろうとは存じますが、どこかへまわりましたのかも知れませんでございますよ。まあ、ごゆっくり遊ばして」
 と、栄三郎の妻という句に力を入れて、これだけいうのがお艶には一生懸命だった。茶屋女上がりと馬鹿にされまい。まともな挨拶もできないとあっては、じぶんよりも栄三郎様のお顔にかかわる。こう引き締まったお艶のこころに、まあなんといっても、いま栄三郎の心身をひとりじめにしているのはこのわたしだという勝ちほこった気が手伝って、お艶にこれだけスラスラと初対面の口上《こうじょう》を言わせたのだったが、そのあとで、
「良人がいろいろと御厄介になりましたそうで……」
 と口にしかけたお艶は、突如、いい知れ
前へ 次へ
全379ページ中110ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング