らせ申しそろ。その場へおいでのお心あらば、わたしがこれよりおつれ申すべく早々におしたくなされたくそろ――ごぞんじより。
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はっとよろめいた弥生、窓につかまってさしのぞくと、御存じよりとはあるが、見たこともない女がひとり、いつのまにどうしてはいりこんだものか、小雨に煙る庭の立ち木の下に立って、白い顔に傘《かさ》をすぼめておいでおいでをしている。
憑《つ》かれたように立ちなおった弥生が、見るまに血相をかえて手早く帯を締《し》め出したとき、やにわに本降りに変わって、銀に光る太い雨脚《あまあし》が檐《のき》をたたいた。
世帯道具《しょたいどうぐ》――といったところで茶碗皿小鉢に箸《はし》が二組と、それにささやかな炊事《すいじ》の品々だが、その茶碗と箸も正直なところできることなら同じ一つですませたいぐらい。
何はなくとも、栄三郎とお艶にとっては、高殿玉楼《こうでんぎょくろう》にまさる裏店《うらだな》の住いだった。
家じゅうがらんとして……というと相応に広そうだが、あさくさ御門に近い瓦町《かわらまち》の露地の奥、そのまた奥の奥というややこしい九尺二間の棟割《むねわり》である。せまいなどというのを通りこして、まっすぐに寝れば足が戸口に食《は》み出るほどだったが――。
その、せまく汚ないのがおかしいといってお艶が笑えば栄三郎も微笑《ほほえ》む。笊《ざる》、味噌《みそ》こしの新しいのさえ、こころ嬉しくも恥ずかしい若いふたりの恋の巣であった。
お艶と栄三郎、思いが叶ってここに家をかまえたまではいいが、自分が逃げたためにもしやお母さんに疑いがかかって、本所の屋敷であの源十郎の殿様にいじめられていはせぬかと思うと、こうしていてもお艶は気が気でなかったとともに、それにつけて、思い出してもふしぎなのは、じぶんを逃がしてくれたお藤さんという女の振舞《ふるまい》とその言葉である。
栄三郎様と弥生さまとが……と聞いてむちゅうで駈け出したお艶が、泰軒とつれだって千住をさして急いだ途中。
あの小塚原のあけ方、左膳と栄三郎が刃を合わせた。
四分六といつか泰軒が評《ひょう》したことばのとおりに剣胆《けんたん》二つながらに備えてはいても、何しろ左膳ほど刀下をくぐっていない栄三郎、ともすれば受け太刀になって、しかも手の甲をさいた傷口から鮮血はとどまるべくもなく、下
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