や、上身をそらせて栄三郎の鋭鋒を避けながら、右下からはすに、乾雲、鍔《つば》まで栄三郎を串刺《くしざ》しに。
 と見えたが……。
 虚を斬りさげた武蔵太郎の柄におさえられて、乾雲のさきにいささかの血が走ったのは、余勢、栄三郎の手の甲をかすったのだ。
「うぬッ!」
 と歯を噛《か》む音が左膳の口を洩れる。そこを! 体押しにかかった栄三郎、満身の力をこめて突き離そうとしたが、磐石《ばんじゃく》の左膳、大地に根が生えたように動かない。
 両方からひしッ! と合して、人の字形に静止――つばぜりあいだ。
 近ぢかと寄った乾雲坤竜。
 吐く息がもつれて敵意の炎と燃えあがるのを、並木のかげから二つの顔がのぞいていた。

 雨をはらんだ夜空は低かった。
 窓の下の縞笹《しまざさ》にバラバラと夜露のこぼれるのが、気のせいか雨の音のように聞こえる。
 屋敷町の宵の口はかえって、深更《しんこう》よりものしずかで、いずれよからぬ場所へ通う勤番者《きんばんもの》のやからであろう、酔った田舎《いなか》言葉が声高におもて通りを過ぎて行ったあとは、また寂然《ひっそり》とした夜気があたりを占めて、水を含んだ風がサッと吹きこんでは弥生の枕もとをつめたくなでる。
 弥生は、掻巻《かいまき》の襟を噛むようにしてはげしく咳《せき》入った。
 麹《こうじ》町三番町――土屋多門の屋敷の一間。
 肺の病に臥す弥生の部屋である。
 このごろ人を厭《いと》うて看病《みとり》の者さえあまり近づけない弥生……若い乙女の病室とも思われなく寒々しくとり乱れて、さっき女中が運んで来た夕餉《ゆうげ》の膳にさえまだ箸がつけてない。
 床の中で眼をつぶった弥生が、またしても思うのは――あの諏訪栄三郎さまのこと。
 栄三郎様は、浅草三社まえとかの女と懇《ねんごろ》になさっている。と、それとなく言って叔父多門の口から、手繰《たぐ》りだすようにすべてを知った弥生だったが、それですこしは諦めるかと思った多門の心を裏切って、弥生の愛欲思炎《あいよくしえん》は高まる一方――かてて加えて病勢とみに進んで、朝夕の体熱《ねつ》に浮かされるように口走るのが、やはり栄三郎の名――それは、恋と病に娘ざかりの身を削《そ》がれてゆく、あさましいまでに痩せ細った弥生のすがたであった。
 日々これを眼にする多門の苦しみも大きかったが、そのなかにも一つの悦《よろこ》
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