その泣き声を聞いたのだった。
 妖剣乾雲、いかなる涙をもって左膳に話しかけたか――。
 おどろおどろとして何ごとかを陳弁《ちんべん》する老女のごとき声が、酔い痴《し》れた左膳の耳へ虫の羽音のようにひびいてくる。かれは、隻眼を吊《つ》り開けて膝元の乾雲を凝視した。
 おのが手の脂《あぶら》に光る赤銅の柄《つか》にむら雲の彫り、平糸を巻きしめた鞘……陣太刀乾雲丸は、鍔《つば》をまくらに、やぶれ畳にしっとりと刀姿を横たえて、はだか蝋燭《ろうそく》の赤いかげが細かくふるえている。

 剣精《けんせい》のうったえ。
 それが左膳にはっきり聞こえるのだ。
「血、血、血……人を斬ろう、人を斬ろう」
 というように。
 左膳はにっこりした。が、かれはふしぎな気がした。何故? いままでも左膳はよく深夜に刀の泣き声らしいものをきいたことがあるが、それはいつもきまって若い女のすすりなきだったけれど、今夜のはたしかに老婆の涕泣《ていきゅう》だからだ。
 その愁声《しゅうせい》が、地の底からうめくように断続して左膳の酔耳に伝わると、はっとした彼は、あたりをぬすみ見て乾雲丸を取りあげた。
 源十郎はおさよといっしょにさっき出て行ったきりである。飲食《のみくい》のあとが、ところ狭いまでに散らかったなかに仙之助と与吉はいつしか酔いつぶれて眠っていた。
 深々と更けわたる夜気。
 と、またもや鬼調《きちょう》を帯びた声が……乾雲丸の刀身から?
 左膳は一、二寸、左手に乾雲を抜いてみた。同時に、突き上げられたように起《た》ったかと思うと、彼はすでにその大刀を落とし差しに、足音を忍ばせて庵室の土間に降り立った。
 人は眠りこけている。見るものはない。それなのに左膳は、すばやく懐中を探って黒布を取り出し、片手で器用に顔を包んだ。音のしないように離室を出ると、酒に熱した体に闇黒《やみ》を吹く夜風が快よかった。こうして一個のほそ長い影と化した左膳、乾雲丸を横たえて植えこみづたいに屋敷をぬけてゆく。
 どこへ?
 江戸の辻々に行人を斬りに。
 なんのため?
 ただ斬るため。
 しかし、そのうち雲竜相応じ、刀の手引きで諏訪《すわ》栄三郎に会うであろうと、左膳は一心にそれを念じていたのだったが、いまは斬らんがために斬り、ひたすら殺さんがために殺す左膳であった。
 一|対《つい》におさまっていれば何事もないが、番《つ
前へ 次へ
全379ページ中97ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング