がい》を離れたが最後、絶えず人血を欲してやまないのが奇刃《きじん》乾雲である。その剣心に魅《み》し去られて、左膳が刀を差すというよりも刀が左膳をさし、左膳が人を斬り殺すというよりも刀が人を斬り殺す辻斬りに、左膳はこうして毎夜の闇黒をさまよい歩いているのだったが、ちらと乾雲の刃を見ると、人を斬らずにはいられなくなる左膳、このごろでは彼は、夜|生温《なまぬる》い血しぶきを浴びることによってのみ、昼間はかろうじていささかの睡眠に神気を休め得るありさまだった。
が、刀が哭《な》くと聞いたのは、左膳邪心の迷いで、いままでの若い女性の声は納戸のお艶《つや》、今夜の老婆の泣き声は、お艶の代りにそこにとじこめられたおさよの声であった。
左膳の出て行ったあと。
納戸では、源十郎がおさよを詰問《きつもん》している。
「どうも俺は、以前から変だとは思っていたが、これ! さよ! 貴様がお艶を逃亡させたに相違ない。いったい貴様はあの女の何なのだ? ううん? いずれ近い身寄りとはにらんでおるが、真直《まっす》ぐに申し立てろッ」
籠の鳥に飛び去られた源十郎、与力の鈴源と言われるだけあって泣き伏すおさよの前にしゃがんでこうたたみかけた。
「伯母《おば》か、知合いか、なんだ?」
おさよは弁解も尽きたらしく、もう強情に黙りこくっていると、源十郎は、
「いずれ身体にきいていわせてみせるが、お艶が俺の手に帰るまでは、貴様をここから出すことはならぬ」
いい捨てて、先に懲《こ》りたものか、今度は板戸に錠をおろして立ち去って行った。きょうまで娘のいた部屋に、その母を幽閉して――。
文つぶて
どこか雲のうらに月があると見えて、灰色を帯びた銀の光が、降るともなく、夢のようにただよっている夜だった。
もう明《あ》け方《がた》にまもあるまい。
右手の玉姫《たまひめ》神社の方角が東にあたっているのだろう。はや白じらとした暁のいろが森のむこうにわき動いていた。
人通りのない小塚原《こづかっぱら》の往還《おうかん》を、男女ふたりの影がならんでいそぐ――当り矢のお艶と蒲生泰軒。
山谷《さんや》の堀はかなり前に渡った。けれど泰軒は足をとめるようすもなく、そしてじぶん達のまえには長いながい道路が夜眼に埃を舞わせて遠く細く走って、末はかすむように消えているのだ……千住《せんじゅ》の里へ。
歩きなれな
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