れ知らず面を伏せて、心中に足もとの土へ話しかけた。こいつあとんだことをしたぞ! まさかこんなに相《そう》まで変えようとは思わなかったが、ちえッ! 黙っていりゃあよかった……。
 と、頭のうえで、夢でもみているような、しらけきったお藤の声がした。
「きれいな娘だろうねえ、その弥生さんとかってのは」
「へ?」と顔を上げた与吉は、とたんに、三斗の冷水を襟元からつぎこまれた感がして、「へえ、なんでもあけぼの小町といわれたくらいですから、それあもう――」
 と語尾を濁して黙りこんだ。
 仮面のようなお藤の顔が、こわばった笑いにゆがんだのを見て、与吉は慄然《ぞっ》としたのだった。
「それはそうだろうさ。あたしみたいなお婆あさんなんか足もとへも寄れやあしまい。はははは、知ってるよ! でも与の公、お前いいことをしらせておくれだったね。ほんの少しだけれど、さ、お礼だ、取っといておくれ」
 黒襟のあいだを白い手が動いたかと思うと、ちゃりいん! と一つ、澄んだ音とともに、小判が与吉の眼前におどった。
 同時に。
 ぽかんとしている与吉をその場に残して、お藤は、夕ぐれの庭に息づく雑草を踏んで歩き出した。嫉妬《しっと》にわれを忘れたお藤、よろめく足を千鳥に踏みしめて、さながら幽明《ゆうめい》のさかいを往《ゆ》くように。
 声のない笑いがお藤の口を洩れる――。
 今さら男を慕うの恋するのという自分ではない。それが、丹下左膳のもっている何ものかにひきつけられて、あの隻眼隻手のどこがいいのかと傍人《ひと》もわらえば自らもふしぎに耐えないくらい思いをよせているのに、針の先ほども通じないばかりか、先夜来すこしのことを根に持ってあの責め折檻《せっかん》が続いたのも、あの方に弥生という相手があってこのあたしとあたしの真実をじゃまにすればこそであったのか。
 それにしても――
 源十郎の殿様は、まあなんというお人だろう!
 必ず丹下さまとの仲をとりもってやるから、そのかわりに……という堅い約束のもとに、お艶を連れ出す手伝いをしたはずなのに! こっちの気をつたえるどころか、そのため、はからずも左膳さまの激しい怒りを買ってもあのとおり最後まで知らぬ顔の半兵衛をきめていやがるッ!
 眼中人のない丹下左膳に、何もかも知りつくした心を向けていた櫛まきお藤、もうこうなれば、もとより眼中に人はないのだ。
 娘の恋が泪《な
前へ 次へ
全379ページ中91ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング