な、このとおり、幾重にも詫びる……しかしだなあ丹下、お藤が舟へとびこんで、そのお藤をお艶と見誤って敵が即座に舟へ移って逃げたところで、そ、それはおれの知ったことではないぞ」
すると、聞いていたお藤が、
「まだあんなことをいってる! 殿様、あなたもずいぶん往生《おうじょう》ぎわが悪いねえ、みんなお前さんのあたまから出たことじゃないか」
いい出すのを与吉がおさえた。
「姐御! ね、もうようがしょう、殿様も折れてらっしゃる――」
「それ見ろ!」左膳は、勝ち誇った眼をお藤から源十郎へ返して、
「貴様の火事泥《かじどろ》さえなけりゃあ俺はあの夜坤竜を手に入れて、これ、この」と左剣を振り鳴らしながら、
「この刀といっしょにしてやることができたのだ――鈴川、貴様に裏切られようとは思わなかったぞ」
「貴公も執念《しゅうねん》ぶかい男だな。なんにしても過ぎたこと。宜《よ》いではないかもう……」
「そっちはよかろうが、こっちはいっこうよくねえ。おれの執念ではない。刀の執念だ。こ、この乾雲の執念なのだッ!」
「フフン!」源十郎はせせら笑った。「おもしろいな。それで何か、毎夜辻斬りにお出ましになるてえわけか」
すぱりと吐いた。
と!
「ぶッ!」面色蒼白の度をました左膳、たちまちぽうっとふしぎな紅潮《あからみ》を呈して、「どうして知っとった?」
「や! とうとう口を割ったな。なに、おおかたそんなところと、ちょっとかまを掛けたんだが、なあ丹下、江戸中の不浄役人がかぎまわっている今評判の逆|袈裟《けさ》がけの闇斬り……南町の奉行は、たしか大岡越前とかいう名判官だったけなあ! 恐れながら――とひとことおれが駈けこめば! どうだ! あとは自分で考えてみろッ!」
「ううむ! その前に汝《うぬ》をぶった斬るんだ」
「おれは事は好まん」
「き、斬れるぞ源十! け、乾雲が、斬れきれと泣いておる。この声が貴様に聞こえんか」
「事は好まん……が、やむを得ん!」
源十郎、土気色《つちけいろ》の微笑を突如与吉へふり向けた。
「座敷からおれの刀を持ってこい!」
芝生――とは名ばかりの、久しく鎌《かま》を知らない中庭の雑草に腰をおろした左膳、手ぢかの道しばの葉を一本抜きとって、
「これ、見ろ、こいつにこんなにくれ[#「くれ」に傍点]が来ている。してみると、二百十日から二十日までのあいだに一つ大暴風雨がくるか
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