じっくり言いきかせてくれ」
「ええええ。そうでございますよ。いまはまだ本人も気がたっておりますから、殿様の御本心もなかなか通じませんけれど、あれでねえ、とっくりと損得を考えますれば、ほほほ、いずれ近いうちには折れて出ましょうとも」
 うそも方便とはいえ、現在の母たるものがなんたる! と思えばおさよも心中に泪をのまざるを得なかった。
「それにねえ殿様、あんな堅いのに限って――得てあとは自分からうちこんで参るものだとか申しますから、まあ、この婆あにまかせて、お気を長くお持ち遊ばせ」
 源十郎は上機嫌、廊下の板に立ちはだかって、襟元からのぞかせた手でしきりと顎をなでては、ひとり悦に入りながら、
「うむ、そういうものかな、はははは、いや、大きにそうであろう。おれは何も、あれを一時の慰《なぐさ》み物にするというのではないのだ」
「それはもう……わたくしも毎日よっく申しきかせておりますんでございますよ、はい」
「と申したところで、水茶屋では公儀へのきこえもあることだからとても正妻《せいさい》になおすというわけにはいかんが、一生その、なんだな、ま、妾《めかけ》ということにしてだな、そばへおいて寵愛《ちょうあい》したいと思う」
 と源十郎は、口から出まかせにさもしんみりとして見せるが、一生そばへおいて――と聞いて、貧窮《ひんきゅう》のどん底から下女奉公にまで出ているおさよの顔にちらりと引きしまったものが現われた。
「殿様」
「なんだ? 改まって……」
「ただいまのおことば、ほんとうでございましょうね?」
「はてな! おれが、何かいったかな」
「まあ! 心細い! それではあんまりあの娘《こ》がかわいそうではございませんか」
「なんのことだ? おれにはわからん」
「一生おそばにおいて――とおっしゃった……あれは御冗談でございましょう?」
 源十郎は横を向いて笑った。
「なんの! 冗談をいうものか。いやしくも人間一匹の生涯を決めるに戯《たわむ》れごとではかなうまい。真実おれはあのお艶をとも白髪《じらが》まで連れ添うて面倒を見る気でおる。これは偽りのない心底《しんてい》だ」
 もし事実そうなったら、お艶のためにも自分のためにも……とっさに思案する老婆さよの表情《かお》に、いっそのこと、ここでお艶に因果《いんが》をふくめて思いきって馬を鹿に乗りかえさせようかと、早くも真剣の気のみなぎるのを、
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