、なれもしないばかりか、かえってその気もちが負債《おいめ》のように栄三郎をおさえて、それが彼を弥生から離していったのかも知れなかった。
が、理屈として、
そこに栄三郎の胸に、三社まえの掛け茶屋当り矢のお艶という女があったがためであることはいうまでもない。武家の娘の生《き》一本に世を知らぬ、そして知らぬがゆえに強い弥生の恋情よりも、あら浪にもまれもてあそばれて寄って来て海草《うみくさ》の花のような、あくまでも受身なお艶という可憐な姿に、栄三郎のすべてをとらえて離さぬきずなの力のあったことは、考えてみればべつにふしぎではなかった。
そのお艶。
あの大川の夜、身代りとして舟へ飛びこんだ莫蓮女《ばくれんもの》の口では、お艶は本所の殿様とやらに掠《さら》われたとのことだったが、……どうしてるだろう? こう思うと、栄三郎はいつでもいてもたってもいられぬ焦燥《しょうそう》に駆られて、狂いたつように、手慣れの豪刀武蔵太郎安国をひっつかんでみる。
しかしその刀と並んでいる坤竜丸を眼にするたびに、かれは何よりも先に一時斬って棄てねばならぬわが心中の私情に気がついて、卒然《そつぜん》として襟を正し肩を張るのだった。
乾雲丸と坤竜丸!
剣妖《けんよう》丹下左膳は、乾雲に乗って天を翔《かけ》り闇黒《やみ》に走って、自分のこの坤竜を誘《いざな》い去ろうとしている――それに対し、われは白日坤竜を躍らせ、長駆《ちょうく》して乾雲を呼ぶのだ!
こうしてはいられぬ!
恋愛慕情のたてぬきにからまれて身うごきもとれぬとは! 咄《と》ッ! なんたるざまだッ!
切り離せ! そうだ、左膳を斬るまえにまずお艶への妄念《もうねん》をこの坤竜丸の冷刃で斬って捨て、すっぱりと天蓋無執《てんがいむしゅう》、何ものにもわずらわされない一剣士と化さなくては、とうてい自由な働きは期し得ない!
百もわかっている。が、やっぱりお艶のうえを思うと、栄三郎は剣を第二にこのほうへ! と心がはやる……それは情智のあらそいであった。
だが?
おとなしくしていて養子にでもやられては、お艶も刀もそれきりになってしまう。それではたまらぬと、そこで兄藤次郎にはすまぬと影に手を合わせながら、わざと種々の放埓《ほうらつ》に兄を怒らせて、こうして実家《いえ》へもよりつかずに繋累《けいるい》を断った栄三郎ではないか。
律気《りち
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