ぎ》な兄者人はどんなに怒っていることであろう!
 あの五十両もかわいいお艶のためとはいえ、何もあんなことをしなくてもまともな途《みち》で才覚のつかないわけではなかったが、あれも兄へのあいそづかし――いまも胸底ひそかに兄に詫びてはいるもののそれもこれ、一心を賭して乾坤《けんこん》二刀をひとつにせんがためではなかったか?
 お艶! 恨んでくれるな。今にきっと探しだして助けるから。
 こう低声《こごえ》に口走った栄三郎が、なんとなく再び闘機の近いことをひしと感じて、カッ! と血のさかのぼった眼を見ひらいた時、うらの寺にまのぬけた木魚の音が起こった。
「若様、お茶がはいりましたが――」
 梯子段の中途にお兼婆さんの声がした。

「お艶《つや》や! お艶や」
 と、あたりをはばかる声で、お艶は午後のうたた寝からさめた。
 気がつくと夢を見ていた。
 自分の身が人魚と化して、海底の岩につながれている。青|蚊帳《かや》をすかして見るような、紺いろにぼけた世界だった。藻《も》の林が身辺においしげって、ふしぎなことには、その尖端《さき》に一つ一つ果《み》のように人の顔がついていた。源十郎だった。お藤だった。与吉だった。隻眼で、こわい傷のある左膳とかいう侍の首だった。それが四方八方から今にも咬《か》みつきそうに自分をめざして揺れ集まってくる。
 お艶が恐ろしさに身ぶるいして逃げようとしても、昆布《こんぶ》のような物が脚腰《あしこし》にからみついていて一寸も動かれない。懸命に助けを呼んでも、口から大きな泡の玉が立ち昇るだけで、自分の声が自分にも聞こえなかった。
 なんという情けない!……
 と胸を掻きむしって上を仰ぐと、陽の光が斜めに縞のようにぼやけている水面を、坤竜丸を差した栄三郎が泳いでゆく、何度も何度も頭上高く輪をかいて泳ぎまわっているが、おりてはこないし、お艶も浮かびあがれなかった。
 ああ! じれったい!
 あんなにわたしの上をまわっていて、これが見えないのかしら? 見てももう救い出してくださるお気はないのかしら?
 首尾の松の小舟で……あれほど固く誓ったものを!
 人魚になったお艶が源十郎の首にすりよせられて思わず泣き叫ぼうとしたとき、
「お艶! お艶!」
 と呼ぶ声が水の層を通してだんだんはっきりと聞こえてきた。
 あ! 栄三郎さまがおいでくだすった!
「は、はい――お艶は
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