お艶と乾雲《けんうん》!
この一つのために他を棄てさることのできないところに栄三郎のもだえは深かったのだ。
毎夜のように首尾の松の下に立って、河へ石を三つなげて泰軒に会ってはくるが、お艶の行方も乾雲丸の所在《ありか》も、せわしない都にのまれ去って杳《よう》として知れなかった。
加うるに弥生のこと。
鳥越の兄藤次郎のこと。
夜泣きの刀とともに泣く栄三郎の心だった。
――裏山のかけひの音が、くすぐるようにごろ寝している栄三郎の耳に通う。かれはむっくりと起きあがって、窓明りに坤竜丸の鞘を払った。
うすぐらい部屋に、一方の窓から流れこむ陽が坤竜丸の剣身に映えて、煤《すす》だらけの天井に明るい光線《ひかり》がうつろう。
冬近い閑寂《かんじゃく》な日、栄三郎は、千住竹の塚、孫七の家の二階にすわって、ながいこと無心に夜泣きの脇差を抜いて見入っている。鍔元《つばもと》から鋩子先《ぼうしさき》と何度もうら表を返して眺めているうちに、名匠の鍛えた豪胆不撓《ごうたんふとう》の刀魂が見る見る自分に乗り移ってくるようにおぼえて、かれは眼をあげて窓のそとを見た。
竹格子《たけごうし》を通じて瑠璃《るり》いろの空が笑っている。
小猫の寝すがたに似た雲が一つ、はるか遠くにぽっかりと浮かんでいるのが、江戸の空であろう……栄三郎は刀をしまうと、こんどはぽつんと壁によりかかって、眼をつぶって考え出した。
世の中はすべて思うままにならないことの多いなかに、一ばん自分でどうにでもできそうで、それでいていかんともなし難いものがみずからの心であるような気を、彼はこのごろ身にしみて味わわなければならなかった。
それはことに、かれが鉄斎先生の娘弥生どのを思いおこすごとに、百倍もの金剛力をもって若い栄三郎を打つのだった。
嫌いではない。決してきらいではない!
が、単に嫌いでないくらいのことでは、どうあってもひたすらに心を向けるわけにはいかないところへ、先方から押しつけるように持ってこられると、ついその気もなくはね返したくなるのが男女|恋戯《れんぎ》のつねだという。
栄三郎は弥生を、きらい抜くというのではなかったが、いかに努めても好きになれない自分のこころを彼は自分でどうすることもできなかったのだ。なぜ? ときかれても栄三郎は答え得なかったろうし、ただつとめて好きになる要もなければ、また
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