まえに迷い立った煙のような人影?
ぎょッ! として立ちどまったのをすかし見ると、長身|痩躯《そうく》、乱れた着前《まえ》に帯がずっこけて、左手の抜刀をぴったりとうしろに隠している。
「せっかく生きとる者を殺して、何がおもしろい?」
泰軒の声は痛烈なひびきに沈んだ。
「うん? 何がおもしろい? お前には地獄のにおいがするぞ」
「…………」
が、相手は黙ったまま、生き血に酔ったようによろめいてくる。刀の尖《さき》が小石をはじいてカチ! と鳴った。
「おれとお前、見覚えがあるはずだ。さ! 来い! 斬ってみろ俺を」
こういい放った泰軒は、同時にすくなからず異様な気持にうたれて前方《まえ》をのぞいた。片腕の影がすすり泣いていると思ったのは耳のあやまりで、ケケケッ! と、けもののように咽喉笛《のどぶえ》を鳴らして笑っていたのだった。
「斬れ! どうだ、斬れまいが! 斬れなけりゃあおとなしくおれについて来い」
悠然と泰軒が背をめぐらした間髪、発! と、うしろに跳剣《ちょうけん》一下して、やみを割った白閃が泰軒の身にせまった。
垣根に房楊枝《ふさようじ》をかけて井戸ばたを離れた栄三郎を、孫七と割りめしが囲炉裡《いろり》のそばに待っていた。
千住《せんじゅ》竹の塚。
ほがらかな秋晴れの朝である。
軒の端の栗の梢に、高いあおぞらがのぞいて、キキと鳴く小鳥の影が陽にすべる。
「百舌《もず》だな……」
栄三郎はこういって膳に向かった。そして、
「いかにも田舎《いなか》だ。閑静でいい。こういうところにいると人間は長生きをする」
と、改めてめずらしそうにまえの広場に大根を並べ乾《ほ》してそれにぼんやりと、うすら寒い初冬の陽がさしているのを眺めていた。
孫七は黙って飯をほおばっていた。
鶏が一羽おっかなびっくりで土間へはいろうとして、片脚あげて思案している。
「七五三は人が出ましたろう。神田明神《かんだみょうじん》なぞ――」
お兼《かね》婆さんが給仕盆を差しだしながら、穂《ほ》をつぐように話しかけると、
「お兼もいっしょに食べたらどうだ? そう客あつかいをされては厄介者の私がたまらぬ」
と栄三郎はすすめてみたが、お兼も箸をとろうともしなければ、息子の孫七も口を添えないので、三人はそれきり言葉がとぎれて、黒光りのする百姓家のなかに貧しい朝餉《あさげ》の音が森閑《しん
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