た……かも知れない。
夢。
――という気が、忠相はしみじみとするのだった。
で、うっとりした眼をそばの泰軒へ向けると、会話《はなし》のないのにあいたのか、いつのまにやらごろりと横になった蒲生泰軒、徳利に頭をのせてはや軽い寝息を聞かせている。
ばっさりと倒れた髪。なかば開いた口。
強いようでも、流浪《るろう》によごれた寝顔はどこかやつれて悲しかった。
「疲れたろうな。寝ろ寝ろ」
とひとり口の中でつぶやいた忠相は、急に何ごとか思いついたらしくすばやく手文庫《てぶんこ》を探った。
「こいつ、金がないくせに強情な! 例によって決して自分からは言い出さぬ。起きるとまたぐずぐずいって受け取らぬにきまっとるから、そうだ! このあいだに――」
忠相が、そこばくの小判を紙に包んでそっと泰軒の袂《たもと》へ押し入れると、眠っているはずの泰軒先生、うす眼をあけて見てにっことしたが、そのまま前にも増して大きないびきをかき出した。
とたんに、
庭前を飛んで来たあわただしい跫音《あしおと》が縁さきにうずくまって、息せききった大作の声が障子を打った。
「申しあげます」
「なんだ」さッとけわしい色が、瞬間越前守忠相の顔を走った。
緑面女夜叉《りょくめんにょやしゃ》
「なんだ騒々しい! 大作ではないか。なんだ」
忠相《ただすけ》が室内から声をはげますと、そとの伊吹大作はすこしく平静をとりもどして、
「出ました、辻斬《つじぎ》りが! あのけさがけの辻斬り……いま御門のまえで町人を斬り損じて、当お屋敷の者と渡りあっております」
「辻斬り? ふんそうか」
とねむたそうにうなずいた越前守は、それでも、これだけではあんまり気がなさそうに聞こえると思ったものか、取ってつけるようにいいたした。
「それは、勇ましいだろうな」
「いかが計らいましょう?」
「どれ、まずどんなようすか」
ようよう腰をあげた忠相が、障子をあけて縁端ちかく耳をすますと、
月も星もない真夜中。
広い庭を濃闇《のうあん》の霧が押し包んで、漆黒《しっこく》の矮精が樹から木へ躍りかわしているよう――遠くに提灯の流れて見えるのは、邸内を固める手付きの者であろう。
池の水が白く光って風は死んでいた。
ただ、深々と呼吸《いき》づく三|更《こう》の冷気の底に、
声のない気合い、張りきった殺剣《さつけん》の感がどこ
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