宿屋の娘……それはあまりにも奇《く》しき情痴のいたずらに相違なかった。
が、爾来《じらい》いく星霜《せいそう》。
身は栄達して古今の名奉行とうたわれ、世態《せたい》人情の裏のうらまで知りつくしたこんにちにいたるまで、忠相はなお、かつて伊勢の山田のおつるへ動きかけた淡い恋ごころを、人知れず、わが世の恋と呼んでいるのだった。
陽の明るい縁などで、このごろめっきりふえた白髪を抜きながら、忠相がふと、うつらうつらと蛇籠《じゃかご》を洗う五十鈴《いすず》川の水音を耳にしたりする時、きまって眼に浮かぶのはあのふくよかなおつるの顔。
まことにおつるは、色彩《いろどり》のとぼしい忠相の生涯における一|紅点《こうてん》であったろう。たとえ、いかに小さくそして色褪《いろあ》せていても。
そのおつるの家に、泰軒が寄寓してからまもなくだった。山田奉行忠相の器量を試みるにたるひとつの難件がもちあがったのは。
そのころ松坂の陣屋に、大御所十番目の御連枝《ごれんし》紀州中納言光定《きしゅうちゅうなごんみつさだ》公の第六の若君|源六郎《げんろくろう》殿が、修学のため滞在していて、ふだんから悪戯《いたずら》がはげしく、近在近郷の町人どもことごとく迷惑をしていたが、葵《あおい》の紋服におそれをなして誰ひとり止め立てをする者もなかった。
源六郎、ときに十四、五歳。
それをいいことにして、おつきの者の諫《いさ》めるのもきかずに、はては殺生禁断の二見ヶ浦へ毎夜のように網を入れては、魚籠《びく》一ぱいの獲物に横手をうってほくほくしていると、このことが広く知れ渡ったものの、なにしろ紀伊《きい》の若様だから余人とちがってすぐさま捕りおさえるわけにもゆかず、一同もてあましていたが、これを聞いた山田奉行の大岡忠右衛門、法は天下の大法である、いかに紀州の源六郎さまでもそのまま捨ておいては乱れの因《もと》だというので、ひそかに泰軒ともはからい、手付きのものを連れて一夜二見ヶ浦に張りこんでさっさと源六郎を縛《しば》りあげた。
そして。
無礼! 狼藉《ろうぜき》! この源六郎に不浄の縄をかけるとは何ごと……などとわめきたてるのも構わず奉行所へ引ったてて、左右に大篝火《おおかがりび》、正面に忠右衛門が控えて夜の白洲《しらす》をひらいた。
「これ! 不届至極《ふとどきしごく》! そのほうは何者か、乱心いたした
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