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その夜、後年の忠相、当時山田奉行大岡忠右衛門が、どんな奴か一つ虚をうかがってやれとこっそり牢屋に忍んでのぞくと……。
君子は独居《どっきょ》をつつしむという。
人は、ひとりいて、誰も見る者がないと思う時にその真骨頂《しんこっちょう》が知られるものだ。
板敷きに手枕して鼻唄まじり、あれほど獄吏《ごくり》をてこずらせていると聞いた無宿者が、いま見れば閉房《へいぼう》の中央に粛然《しゅくぜん》と端坐して、何やら深い瞑想にふけっているようす。
室のまんなかに座を占めたところに、行住座臥《ぎょうじゅうざが》をもいやしくしない、普通《ただ》ならぬ武道のたしなみが読まれた。
しかも! 土器の油皿、一本|燈心《とうしん》の明りに照らしだされた蒼白い額に観相《かんそう》に長じている忠相は、非凡の気魂、煥発《かんぱつ》の才、雲のごとくただようものをみたのである。
これは、一人傑。
ととっさに見きわめて、畳のうえに呼び入れて差し向かい、一問一答のあいだに掬《きく》すべき興趣《きょうしゅ》滋味《じみ》こんこんとして泉のよう――とうとう夜があけてしまった。そして、朝日の光は、そこに職分を忘れた奉行と、心底を割った囚人とがともに全裸の人間として男と男の友愛、畏敬《いけい》、信頼に一つにとけ合っているのを見いだしたのだった。
このお方はじつは千代田の密偵、将軍おじきのお庭番として名を秘し命を包んでひそかに大藩の内幕を探り歩いておらるるのだから、万事そのつもりで見て見ぬふりをするように……というような苦しい耳うちで下役の前を弥縫《びほう》した忠相も、自分に先んじて風来坊泰軒を高くふんだ茶碗屋おつるの無識の眼力にはすくなからず心憎く感じたのだろう。かれは、泰軒をおつるに預けさげたのちも、たびたびお微行《しのび》で茶碗屋の暖廉《のれん》をくぐったが、それがいつしか泰軒を訪れるというよりも、その席へ茶菓を運んでくるおつるの姿に接せんがため――ではないか? と忠相自身もわれとわが心中に疑いだしたある日、ずばりと泰軒が図星《ずぼし》をさした。
「おぬしは、おつる坊を見にくるのだな。はははは。かくすな、かくすな。いや、そうあってこそ奉行も人だ。おもしろい」
忠相はなんとも言わずに、胸を開いて大笑した。
ただそれだけだった。
これが恋であろうか。よしや恋は曲者にしても、お奉行大岡様と
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