さえ食うてやればおつる坊も満足じゃろうが、お互いにあのころは若かったなあ」
「うむ、若かった、若かった! おれも若かったが、貴様も若かったぞ、ははははは」
 と忘れていた軽い傷痕《きずあと》がうずきでもするように、忠相は寂然《じゃくねん》と腕を組んで苦笑をおさえている。
 泰軒もうっとり思い出にふけりながら、徳利をなでてまをまぎらした。
 怖いとなっているお奉行さまに過ぎし日を呼び起こさせるおつる坊とは?
 話は、ここで再び十年まえの山田にかえる。
 神の町に行き着いたよろこびのあまり、無邪心《むじゃしん》小児のごとき泰軒が、お神酒《みき》をすごして大道に不穏な気焔をあげている時、山田奉行手付の小者が通りかかって引き立てようとすると、ちょうど前の脇本陣茶碗屋の店頭から突っかけ下駄の若い娘が声をかけて出て来た。

 わき本陣の旅籠《はたご》茶碗屋のおつるは、乙女《おとめ》ごころにただ気の毒と思い、役人の手前、その場は知人のようにつくろって、往来にふんぞり返っていばっている泰軒を店へ招《しょう》じ入れたのだった。
 仔細《しさい》ありげな遠国の武士――と見て、洗足《すすぎ》の水もみずからとってやる。
 湯をつかわせて、小ざっぱりした着がえをすすめた、が泰軒はすまして古布子《ふるぬのこ》を手に通して、それよりさっそく酒を……というわがままぶり。
 一に酒、二に酒、三に酒。
 あんな猩々《しょうじょう》を飼っておいて何がおもしろいんだろう? と家中の者が眉をひそめるなかに、おつるは、なんの縁故もない泰軒を先生と呼んで一間《ひとま》をあたえ、かいがいしく寝食の世話を見ていた。
 明鏡のようにくもりのないおつるの心眼には、泰軒の大きさが、漠然《ぼんやり》ながらそのままに映ったのかも知れぬ。
 また泰軒としても、思いがけないこの小娘のまごころを笑って受けて辞退もしなければ礼一ついうでもなく、まるで自宅へ帰ったような無遠慮のうちにきょうあすと日がたっていったが――。
 狭い市《まち》。
 脇本陣に、このごろ山伏体《やまぶしてい》のへんな男がとまっているそうだとまもなくぱっとひろまって、ことに手先の口から、その怪しき者が大道で公儀の威信に関する言辞を弄《ろう》していたことが大岡様のお耳にもはいったから、役目のおもて捨ててもおけない。即座に引き抜いて来て、仮牢《かりろう》へぶちこませた
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