へ声をかけながら、大岡越前《おおおかえちぜん》は、きょう南町奉行所から持ち帰った書類を、雑と書いた桐《きり》の木箱へ押しこんで、煙管《きせる》を通すつもりであろう。反古《ほご》を裂いて観世縒《かんぜよ》りをよりはじめた。
夕食後、いつものようにこの居間にこもって、見残した諸届け願書の類に眼を通し出してから、まださほど刻《とき》が移ったとも思われないのに、晩秋《ばんしゅう》の夜は早く更《ふ》ける。あけ放した縁のむこうに闇黒《やみ》がわだかまって、ポチャリ! とかすかに池の鯉のはねる音がしていた。
越前守|忠相《ただすけ》は、返辞がないのでちょっと襖《ふすま》ごしに耳をそばだてたが、用人の伊吹《いぶき》大作は居眠ってでもいるとみえて、しん[#「しん」に傍点]として凝《こ》ったようなしずけさだ。
ただ遠くの子供部屋で、孫の忠弥《ちゅうや》が乳母に枕でもぶつけているらしいざわめきが、古い屋敷の空気をふるわせて手に取るように聞こえる。
「小坊主め、また寝しなにさわぎおるな」
という微笑が、下ぶくれの忠相の温顔を満足そうにほころばせた時、バタバタと小さな跫音《あしおと》が廊下を伝わってきて、とんぼ[#「とんぼ」に傍点]のような忠弥の頭が障子のあいだからおじぎをした。
「お祖父《じい》ちゃま、おやすみなちゃい」
忠相が口をひらく先に、忠弥は逃げるように飛んで帰ったが、その賑《にぎや》かさにはっとして隣室につめている大作が急にごそごそ[#「ごそごそ」に傍点]しだすけはいがした。
「大作、これよ、大作」
「はッ」
と驚いて大声に答えた伊吹大作、ふすま[#「ふすま」に傍点]を引いてかしこまると、大岡越前守忠相はもうきちん[#「きちん」に傍点]と正座して書台の漢籍《かんせき》に眼をさらしている。
「お呼びでござりますか」
「ああ。わしにかまわずにやすみなさい」忠相の眼じりに優しい小皺《こじわ》がよる。「わしはまだ調べ物もあるし読書もしたい……だがな、大作――」
と肥った身体が脇息《きょうそく》にもたれると、重みにきしんでぎしと鳴った。
「さきほど役所で見ると、浅草田原町三丁目の家主喜左衛門というのから店子《たなこ》のお艶、さよう、三社まえの掛け茶屋当り矢のお艶とやら申す者の尋《たず》ね書が願い立てになっておったが、些細《ささい》な事件ながら、越前なんとなく気にかかってならぬ
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